平成9年9月27日号

 涼しく、雨の多い9月となりました。それでも忘れる事なく 庭の木犀(もくせい)が小さな黄色い花芽を付けています。昔から『暑さ寒さも 彼岸まで』と言われていますが、今年はお盆様が例年になく涼しく、既にお彼岸のようでした。ですから住職になって初めての施食会もそんなにあせ(冷汗)をかかずに勤める事が出来ました。今回の『てらだより』は、8月14日に行われたお施食会の時のお話しです。



◆十億の母と我が母

 明治大正昭和にまたがって活躍した暁烏敏(あけがらすはや)という仏教者が『十億の人に十億の母あらんも我が母にまさる母ありなん』と言っています。彼が生まれた明治時代、世界全体の人口は約10億人だったと言われています。その10億の人、一人一人に、男の人であれ、女の人であれ、誰にでも母親がいます。勿論母親が生きている人もいれば、既に亡くなって仕舞った人もいるでしょう。しかし人間の数だけ母親がいた事は事実です。現在、世界の人口は約60億人と言われていますから、さしずめ『六十億の人に六十億の母あらんも我が母にまさる母ありなん』とでもいう事でしょうか。世の中にこれだけの母親がおりながら、自分の母親よりも素晴らしく、そして尊く有り難い存在は、どんなに探してもいないというのです。大変明快で誰にでも良くわかる教えなのですが、本当にこの事を理解し、心の底から納得しているのか?と言えば私など甚だあやしい所があるんです。



◆渥美清の母親への便り

 その点素晴らしいなあと思ったのが、映画『男はつらいよ』で、巧みな話術と、何処となく悲しみのある演技で、主人公のフーテンの寅さんを演じ続けた渥美清さん(以下敬称略)のお母さんに対する接し方なんです。まだ彼が『男はつらいよ』に主演する以前の事なんです。それは羽仁進監督による『ブワナ・トシの歌』という映画の撮影の時でした。渥美清演じるプレハブ住宅の建築技師が、アフリカの未開地に出かけ、現地の人達と心の交流をかわすといった内容の映画なんです。彼はそのロケの為に、昭和38年の8月からの半年間、アフリカ大陸のケニヤとタンザニアに缶詰になっていたんです。その彼が撮影を終えると、真っ直ぐに自分の部屋に戻り、誰かに『はがき』を書いているというんです。どんなに撮影で疲れた日でも、寝る前には必ず『はがき』を書くというんです。同僚の人は不思議に思う訳です。彼は毎日いったい誰に、何を書いているのだろうか?とね。そこで、その同僚は彼の机の上に置いてある、その『はがき』を悪いと思いつゝも、そっと盗み見するんです。まあぁ!誰だって不思議に思い、見たくなりますよね。そうしたら、その『はがき』にはこう書いてあったそうです。
『拝啓 おふくろ様 僕 元気』その次の日も、又次の日も、アフリカに居る間、ズウッーとこの同じ文面で、日本で待つ、お母さんに『はがき』を送り続けたといいます。私ならもっとスマートに書くだろうな と思うんですね。例えば『何にも邪魔されずアフリカの大草原に沈む夕日は、本当にきれいです、ここに居ると、人間社会の煩わしさも、そして悲しさも忘れさせてくれるそんな力強さを感じます。それは人類が初めて誕生した大地であり、我々の故郷に帰って来たという、そんな安らぎがあるからなのでしょうか?』とか。毎日は書けないにしても、他に書く事があるだろうにと思うんです。しかし彼は、来る日も来る日もかたくなに『拝啓 おふくろ様 僕 元気』という同じ文面で『はがき』を書くんです。
 実は人気が出始めた25歳の時、彼は肺結核を患って、片肺を切除し3年間の療養生活を送っているんです。ですから彼の母にしてみれば『大草原に沈む夕日が美しい』等という事よりも、遠く離れたアフリカで息子が、風邪をひいていないだろうか?或いは水あたりや食あたりをして『おなか』をこわしていないだろうか?一番心配で、知りたいのは、息子の健康の事なんです。彼はそんな母の思いを察して、的確に『拝啓 おふくろ様 僕 元気』と日本で待つお母さんに書き続けていたんです。
 それを知ってから、私はすっかり彼のファンになって仕舞ったのですが、惜しい事に昨年(平成8年)8月4日、彼は突然亡くなって仕舞いました。ですから映画で演じている『寅さん』とは又違った、母親思いの人物像が私にはいつも浮んで来るのでした。



◆螢と母親

 渥美清が亡くなった次の週、朝日新聞が出している『アエラ』という週刊誌に『追悼渥美清さん』という特集記事があり、その中に彼の俳句45句が掲載されておりました。それらは、2・3カ月に一度、アエラ誌主催の俳句会で彼が、読んだ俳句だったんです。彼はその句会に殆ど、欠かさずに出席したといいます。因みに彼の俳号は『風天』(フーテン)といったそうです。その45句それぞれに趣きがあるのですが、その中に彼が小さい時、母親に連れられて、螢狩り(ほたるがり)に行った時の事を、思い出して読んだ句がありました。私の大変好きな俳句なので、紹介したいと思います。
 それは


蛍消え 髪の匂いの なかに居る  -風天-

という句なんです。
 蛍は6月から7月にかけての梅雨の時期、苗を植えた田んぼや小川で、良く見掛けましたが、今では殆ど見掛けなくなって仕舞いました。私が生まれ育った田舎では『川に蛍をよび戻そう』というので、川底をきれいにさらい、浅瀬を作って、蛍の幼虫が食べる、カワニナという小さな貝を育てたりしたので、最近少しづつ平家蛍(ヘイケボタル)が見られるようになりました。それでも大きな源氏蛍(ゲンジボタル)はもっと奥の、水のきれいな所へ行かなければ見つかりません。ところで蛍は夜通し、出ている訳ではありません。辺りが暗くなる7時半頃に出始め、1〜2時間もすると、何処かへ行って仕舞うんです。
 これは渥美清が、お母さんとそんな蛍を見に行った時の俳句なんです。自分が螢に夢中になっている間は、あまり意識しなかった母親の存在を、蛍が一つ、二つと消えて、一匹もいなくなった時、はじめて母親が、自分の傍らを片時も離れず、ズウーツといてくれたんだという事に、母の髪の毛の、いつもの匂いによって、気付かされたというのが、この俳句の意味なんです。皆さんから見たら、何の変哲もない俳句だと思われるかも知れませんが、私はこの句をとても気に入っています。



◆我々にとっての螢とは?

 半年程前デジタル・ペット『たまごっち』なるものが売り出されました。大変な人気で、これが中々手に入りませんでした。何万円という値段(プレミヤ)がついて取引されているとか?車を買うと『たまごっち』が付いて来るとかいう噂が、まことしやかにささやかれました。ですから我々には、とても手に入る代物ではありませんでした。それでも子供にせがまれ、おもちゃ屋さんに何度か行き、やっとの思いで手に入れた『たまごっち』だったのですが、一ケ月がたちニケ月がたち、鈴虫が鳴くこの頃では、子供たちもそろそろ飽きて来て、面倒を見なくなって仕舞いました。ピッーピッー鳴いて『可愛そうだから、世話をしなさい』と言っても、子供たちはうわの空、結局今では私の家内が『たまごっち』の世話をやいている始末です。
 実はこれは子供だけではなく私自身の問題でもあるような気が致します。今までの私の人生に於いても『蛍』や『たまごっち』のように、一瞬の光を放ち、そして何時しか消えて仕舞ったものがたくさんあったからなんです。



◆近しと(いえど)(しか)も見えざらしむ

 法華経の中に我々のような凡夫は、よそ見ばかりして、本当に大切なもの、尊いものを見ようとしないと教えています。その大切なものは我々のすぐ近くにあり、そしてそれはあまりにも近いので、簡単には見えないというのです。
 しかし彼、渥美清は今まで外に向かって、追い求めていた自分のこころがスウーッと静かに止んだ時『母の慈愛』に、いつも包まれていたんだと気が付いたのではないでしょうか?それを彼は『髪の匂いの なかに居る』と表現したんだと私は受け止めたんです。



◆仏の世界を苦しみの忍土(にんど)に変えて

 我々はモノが二つあって初めてその価値を理解する事が出来ます。ですからこの世に一つしかないものは、その価値が中々判りません。そこでこの一つしかないものを、今回は母親を例に取り上げてお話させて頂きました。本当は母親に限らず、我々自身も又、誰とも比べる事の出来ない「いのち」を生きています。
 ものが二つあって初めて我々は比較する事が出来る訳です。その事を相対と言い、又ものが一つしかない事を絶対と言います。先程の法華経の中には『諸法は実相なり』と教えています。我々の目の前にあるものすべてが、仏の現れであり、どれもがこの世にたった一つしかなく、他と比べる事など出来ない掛け替えのない存在だと言うのです。
 誰であったか?忘れて仕舞いましたが、ある人が『あなたが、色々な事で自分自身と他人とを比べるというのは、まるで自分の身長と相手の体重を比較するようなもので、全く単位が違い、比べようがなく、意味がない事である』と、言っていました。それでも我々は悲しいかな、この掛け替えのない自分を他人と引き比べ、安心しようとするのです。そしてわざわざ相対の苦しみの世界にしているというのです。
 そんな凡夫である我々が、住む世界を、お釈迦様は『耐え忍ばなければならない苦しみの世界』という意味で『忍土』と名付けました。因幡晃の歌ではないですが『忍』と言う字は、刃(ヤイバ)の下に心がある訳ですから、いつも比べるという『やいば』によって自分の心を傷付け、ちっとも心の安らぐ時がないというのです。或いは我々は、その返す刃で、他人の心までも傷付けているのかも知れません。どちらにしろ、そんな苦しみの世界を作り出しているのは、実は我々なんだとお釈迦様は教えているんです。でも我々はそんな母親のように、決して裏切られる事のない仏の世界でヤッサモッサやらさせて貰っているのかもしれません。



◆母の歳 超えて母の 夢を見る

 最後にこんな川柳を紹介します『母の歳 超えて母の 夢をみる』母の死んだ時の歳を、とっくに超えた、老いた息子が、死んだ母親の夢を見たというのです。我々はどんなに歳をとっても、或いは逆に、歳を取れば取る程、母親が恋しいようです。又悲しい事に我々のような凡夫は『亡くして見てはじめて知る親の恩』なのかもしれません。そんな時には、どうぞ亡きお母さんや御先祖様のお墓参りにお出掛け下さい。私も、暇を見つけ母の好きな『浅草舟和の芋ようかん』を買って実家の母に会いに行こうかと思っています。



雨やどり


わが痰壷の母

               (法蔵館発行 亀井鉱(かめいひろし)著 聞法100話より)

 母が亡くなって数年になる。母を思う時多くの人がそうであろうように、痛みと悔いがこみあげずにはいられない。
 晩年、万事に衰えが目立って、何かと不首尾(フシュビ)の目につくようになった老いた母を、息子の私はあからさまに、それみよとばかりいいののしる。いい年になり、いい恰幅(カップク)になった息子が、情容赦もなく毒舌(ドクゼツ)を浴びせる。そんな時母は、ひところ以上におろおろし、時には目に涙を浮かべて押し然る。それでも母は、かいがいしく息子の私の身の周りの世話をし、目を細めて他人の前に、わが子の出来を吹聴したりした。それが又、妻子や他人の前で、私の気にさわる。小うるさい、無用のおせっかいだ、もうやめてくれと、母の手をにべもなくはねのける。とりつくしまもない、さびしげな、うらめしげな母の姿を尻目に、私はそそくさとその場を立つ。
 母にむけて、何と臆面(オクメン)のない醜(ミニク)さをさらけ出して来たことか。妻や子の前では、まだ取りつくろいがある。母の前では、まったくむき出しの自分、まるで自分の心のいやらしさ、醜さのあらいざらいを、母一人に吐きつづけた、と思わずにはいられない。
 母は私の心の痰壷(タンツボ)のような存在だった。最後の日まで痰壷であって、ついに私の心の、床の間の花活けにはならなかった、息子の私はしようとしなかった。
 母の入院中、母の夢を見た。夢の中で私は、小ばかにしたように母の額を、指先でこずいた。その夢の場面をベットの母に話した事がある。『お前はそういう人間だよ。しようがないもんだ』母の呟きは恨みではなく、ゆるしの語調だった。その時私は、すみきった悔いの中で母の心にすっぽりと身を委ねていた。


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