平成10年4月22日号

 このたよりを皆さんのお手もとにお届けする頃には、庭の桜も散って仕舞い、ツツジや、ハナミズキの花が美しく咲いているかもしれません。今回は護持会主催の総会の日に合わせて行った『第一回花まつり講演会』のお話しを、加筆訂正し、掲載したいと思います。



◆花まつり

 『花まつり』と言うのは、仏教をお開きになりましたお釈迦さまのお誕生を祝う行事なんです。お釈迦さまは、今から2,500年程前、カビラ国の王さまである浄飯王(ジョウボンノウ)を父として、摩耶(マヤ)夫人を母として、インド亜大陸のはずれ、現在のネパールのルンビニ−で、カビラ国の将来を託された、ひとりっ子の王子さまとして、お生まれになりました。
 そのお釈迦さまは、生まれると直ぐに立って『七歩』歩かれ、右手で天を指さし、左手で地を指さして『天上天下唯我独尊』(テンジョウテンガユイガドクソン)と言われたと伝えられております。それは『天上界においても、そしてこの天下(地上界)においても、私よりも尊い者はいない、私こそこの世において最も尊いのだ』というほどの意味なんです。
 私はこの話しを初めて聞いた時、お釈迦さまという人は、なんて傲慢(ごうまん)な、そして我が儘なお方なんだろうと思ったのでした。自分を生んでくれた御恩のある両親や、人生の諸先輩を差し置いて『私こそこの世で最も尊いのだ』というのです。ですからあのトンチで有名な『一休さん』でさえ、『釈迦という いたずら者が 世に出でて 多くの者を 迷わするかな』と、歌に残されているほどなんです。私に限らず誰でもが疑問に思う言葉なんです。
 お生まれになって、直ちに『七歩』歩かれたという事は、何となく理解出来るんです。何故かと言えば、アフリカに住む草食動物をはじめ、日本に住む馬や、鹿等も生まれて一、二時間もしないうちに、母親や群れと一緒になって、駆けだしています。そんなシーンをテレビ等で良く見掛けます。あれは、ライオンやチ−ター等の肉食動物から自分の身体を守る、草食動物としての本能なんです。ですからお釈迦さまも、そんな本能的なものが、まだ残っていたのかもしれません。それでお生まれになって、直ちに『七歩』歩かれたような気が致します。又、直ぐに喋ったという事も不思議と言えば不思議なのでしょうが、それよりも増して私には、お釈迦さまがその時に言われたという『天上天下唯我独尊』という言葉の方が、どうしても理解出来なかったのです。でも、すべての仏教の出発点が、この『天上天下唯我独尊』という言葉の中に、隠されているような気がし、私には決しておろそかに出来ないお言葉なんです。



(いと)しい自分

 『相応部経典』(ソウオウブキョウテン)という仏教初期の経典の中に、コ−サラ国の王さまパセーナディと、その王妃であるマッリカーとの次ぎのようなお話しがあります。
 それは、お釈迦さまが、まだこの世においでの時のお話しです。コーサラ国のパセーナディ王が、ある時マッリカ−王妃と二人だけで宮殿の高台に登っておりました。眼下には月の光りに照らされたヤシの葉が(かす)かに揺れる、とても静かな夜でした。そんな美しい風景を眺めながら、王さまは、ふっと、お妃に『マッリカーよ、そなたには、自分自身よりも愛しいものがあるかね?』とお尋ねになりました。こんなロマンチックな月夜の晩です。実は王さまは、お妃の甘いお答えを期待していたのでした。
 しかし、どうしたのでしょうか?お妃は、深く考え込んで仕舞いました。しばらくして、お妃は静かに、『王さま!私には、私自身よりも愛しいものは、ございません。』と、お答えになりました。それはまことにドライなものでした。『私が、これほど愛していても』と王さまは、そのお妃のお答えに内心ガッカリしてしまわれたのでした。
 そして今度は逆に、お妃が王さまに、お尋ねになりました。『では、王きまはどうでございます?王さまご自身よりも、愛しい者かこの世にございますか?』と、すると、王さまもお妃と同じように少し考えられてから『マッリカーよ、私もよくよく考えてみれば、私自身よりも愛しい者は誰もいない・・・・・・・』とお答えになられたのです。皆さんの場合はどうでしょう。『この世に自分自身よりも愛しいものはいますか?』そう改めて質問されると、中々簡単には答えられそうもありません。
 こうして二人とも『この世で自分が一番愛しい存在である』という事で、思いは一致したのですが。その思いがチョット不安になった二人は、かねてからお慕いしているお釈迦さまのところに相談に行く事に致しました。二人はお釈迦さまを尋ねると、(うやうや)しく礼拝し、傍らに坐して、さっそく宮殿の高台での二人の話しをお釈迦さまにしました。静かに聞いておられたお釈迦さまは、『人間はだれでも、自分ほど愛しい者はないのです。そして他の人にとっても、又すべての生き物においても自分ほど愛しい者はないのです。だからこそ、自分自身を愛しいと知る者は、我が身に引き比べて、他の者を害してはなりません』(さと)すように言われるのでした。お釈迦さまのお言葉を、お聞きになった、パセーナディ王とマッカリ−妃の二人の心は、満ち足りた、すがすがしい思いで一杯になりました。
 『自分のいのちが愛しいように、他の人も、又すべての生き物たちも、同じように自分自身のいのちが愛しいのであり、だからこそ他の人達に対しても、又すべての生きとし生ける物に対しても、(いつく)しみの思いをいだきなさい!』とお釈迦さまは我々仏教徒に生き方の基本を教えているのでした。



◆ゴキブリにもいのち[不殺生戒]

 ピハーラ運動を提唱している田代俊孝先生が、天上天下唯我独尊についてこんな話しをしておられました。
 難病の手術に成功し、無事に自宅に戻る事が出来た女性が、、少し元気になったある日、久しぶりにお勝手に立って、食事の準備をしようとしていたら、戸棚の奥からゴキブリが一匹出て来たそうです。すると彼女は条件反射的に、履いていたスリッパを振り上げて、たたき殺そうとしたというんです。誰だってあの真っ黒く、黒光りしたゴキブリがゾロゥーと音もなく出て来たら、ゾゥーとしますよね。でも彼女は、その時スリッパを振り上げたまま、動けなくなって仕舞ったといいます。振り上げはしたものの、どうしてもそのスリッパが降り下ろせなかったといいます。決して彼女が五十肩(ごじゅうかた)だというのではありませんよ。
 彼女はもしかすると我が家には、二度と戻れないのではないかと、ひとり病院のペットの中で思い苦しんだと言います。それが今回、九死に一生を得て、無事に手術にも成功し、こうして我が家にも帰る事が出来、今日のように食事の準備が出来るまでに元気になりました。そう思ったら、病気になる前は平気で、ゴキブリをたたき殺して来たのに、その時だけは、どうしてもそのスリッパが、()り下ろせなかったと言います。 何だか、彼女の気持ちがわかる様な気がしますね。
 私ひとりが、このいのちの尊さに気付く事によって、生きとし生けるすべてのいのちの尊さに気付く事が出来るのではないか?『みんなから、こんなにも嫌われているゴキブリにも、我々と同じようにいのちがあるんだ』と、彼女は素直に思えたのでした。



◆我が身に引き比べて[(いつく)しみの心]

 お釈迦さまは、お生まれになると『天上天下唯我独尊』といわれました。(わたし)こそこの世において最も尊いのだと言うのでした。
 それはお釈迦さまだけが『天上天下唯我独尊』として生きているのではなく、我々を含めた、すべての生きとし生ける物が『天上天下唯我独尊』として、この掛けがえのない、たった一つのいのちを、生きているという事でした。ですから、決してそれは、お釈迦さまの思い上がった、傲慢な考えから、出て来たのではなく、真実を見通した心眼(まなこ)から、生まれ出たお言葉であったのでした。
 現在の、少年の引き起こす色々な犯罪等もそうでありますし、又私自身の中にもある『私さえ良ければ、他人の事などかまってられない』という思い、或いは『他人の痛みを、全く無視した行い』そんな殺伐とした人間社会においては『我が身に引き比べて、物事を考える慈しみの心』がどんなに大切な事であるか?そんな事を、このお釈迦さまの『天上天下唯我独尊』というお言葉は我々に教えているようです。ですからこれを2,500年前の、お釈迦さまが言われた古くさいお言葉として、受け止めるのではなく、お釈迦さまが、現代を生きる私ひとりの為に、ワサワザ言われたお言葉なんだと、受け止めて行きたいものです。




◆あとがき◆

 ◎道元禅師をはじめ、多くの仏祖(ぶっそ)たちは、こんな我々に『誰でもが菩薩であれ!菩薩として、この苦しみの人生を歩め!』といつも呼びかけられます。そんな仏祖たちの熱き思いを、少しでも伝えて行きたいと思い、今回から寺報のタイトルを『ぽさつ道』と改題致しました。
 ◎庭の桜 人の気も知らず 咲きほこる

 奥さんの御葬式を務めた御縁により、その喪主である御主人より頂いた俳句です。丁度4月の上旬、奥さんが危篤状態になり、集中治療室に入りました。夫として、何もして上げられないもどかしさを、俳句に読まれたといいます。
病院の窓からは満開の桜が見え、世間では花見やら、宴会で華やいでいますが、私たちの居るこの病室は、そんな世界とは全くの別世界。世間ではこんなにはしゃいで、有頂天上人(うちょうてんじょう)になっているのに、何故私たちだけが、こんな辛い目に合わなければならないのか?我々はそのギャップが大きければ、大きい程、辛くなるのでした。




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