平成10年12月10日号

 今年も残すところわずかとなりました。皆様には今年一年間色々とお世話になり有り難うございました。今年最後の『ばさつ道』をお届け致します。
 托鉢は仏教の大切な修行の−つです。それは今から6・7年前の事でした。『オイ、拾っとけ!』とばかりに、10円玉がチャリンと私の足元へ放り投げられたのでした。それはクリスマスを間近に控えた年末のある午後、東京銀座4丁目の交差点で、托鉢をしていた時の事です。その10円玉は上手い具合に私の足元にピタリと止まりました。10円玉を放り投げた人は一瞬のうちに、年末の買い物客や足早に先を急ぐ会社員やOL、或いは旅行客や、学生達の雑踏の中に紛れ込んで仕舞い、見当たらなくなって仕舞いました。



◆拾えなかった10円玉

 せっかく喜捨された10円玉だったに、その時はどうしても、お鉢の中に入れ、法華経の常不軽菩薩品(じょうふぎょうばさつほん)の一節『我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 當得作佛』(意味-私はあなたを深く敬い、決して軽んじたり、あなどったり致しません。なぜならば、あなた方は菩薩の道を修行され、必ず仏さまになる身なのですから)と唱える事が出来なかったのでした。
 決して10円を少ない金額だと思って、拾わなかった訳ではありません。又たくさんの人たちの前で拾うのが恥ずかしかったからでもありません。それは今までの托鉢でそのように足元へお金を放り投げられた事がなかったからなんです。喜捨をする人は皆、私の持っているお鉢の中にチャンと入れましたし、中には和紙で包んで差し出され、綺麗に合掌される人もいましたし、又『寒いですから身体を大切になさって下さいね』とやさしく声を掛けられる人もいました。又人生の色々な悩みを相談する人もいて、そこが即席の相談所になった事もありました。



◆僧は福田なり

 「ひろさちや」という有名な宗教学者は
『インドの仏教では、僧を「福田(ふくでん)」と呼ぶ。信者の布施を僧が受け取る。僧に受け取ってもらうことによって、信者は布施ができるのだ。したがって、僧は、信者が布施の功徳を()き、福を育てる田地である。そこで「福田」と呼ばれるわけだ。ここに布施の考えがよく出ている。信者の布施は、それを僧に受け取ってもらうことによって、はじめて布施となるのである−後略−(読売新聞の[まんだら人生論]より)と言っています。
 私も今から16年程前(昭和58年の夏)縁あって東南アジアのタイにある南方上座部仏教の寺で得度し、ニカ月間ほど、黄色いお袈裟を身にまとい修行をした事がありました。そこの托鉢で、私は不思議な体験を致しました。それは托鉢で喜捨を受ける時、どの僧侶も決して頭をさげないんです。又『有り難う』とお礼の言葉も言わないんです。喜捨を受け終わっても、何事もなかったように、涼しい顔をしているんです。逆に布施した方が『受け取って呉れて有り難うございました』とお礼を言っているのでした。喜捨をする信者から感謝される事はあっても、決して僧侶の方が感謝する事はなかったのです。それがとても深く印象に残ったのでした。
 そんな事もあって、私の足元へ投げられた10円玉をとうとう最後まで拾いあげ、自分のお鉢の中へ入れる事が出来ませんでした。そして私の人格を傷つけられたような気がしたのでした。



万物(ばんもつ)の中、何物か最も堅き

 中国の唐の時代の事です。ある修行者が師匠である趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)『(この世の中で一番硬い、堅固な物は何ですか?)万物の中、何物か最も堅き』とお尋ねになりました。趙州禅師という人は禅宗史の上でとても重要な人なんです。我が道元禅師も趙州古仏(じょうしゅうこぶつ)、趙州古仏』と言って、とても深く傾倒しておられます。その趙州禅師が、その質問に答えて(罵(ののし)るなら、かってに罵(ののし)ればいい、唾(つぱ)を吐(は)き掛けてもいい、それでも足りなければ水をぶち撒(ま)けたっていいぞ)相い罵らば、汝が觜を接がんことをゆるす。相い唾せば、汝が水をそそがんことをゆるす』とお答えになったのでした。素直に解釈すれば『たとえ私は、どんなに誹謗中傷され、或いは唾や水を掛けられても、耐え忍ぶ事が出来る。それ程までに、私の修行に対する信念は固く、強いのである』というふうに受け取れますね。しかし私など、とてもその様に耐え忍ぶ事が出来ません。



◆不増不滅なるもの

 そんな折、研修会で宮城県の松島に行った時の事です。松島と言えば日本三景の一つであり、海に浮ぶ島々が、一幅の水墨画を見ているように美しい所です。()の松尾芭蕉が『奥の細道』の途次(とじ)、この松島に寄られ『松島や ああ松島や 松島や』と読まれたのはあまりにも有名な話です。その芭蕉も、今から300年前にこの松島を眺めていたんだろうなと、想像をふくらませたのでした。
 その時でした、一緒に海を見ていたある老師が私に『不思議ですね!人類が生まれるズーット以前から、それこそ何億年も前から、この海の水の量はほとんど変わってないんですよね!』と何気なく私に話し掛けられたのでした。その時私はハッ!としたのです。何故かと言いますと、海は月という外的な影響によって満潮になったり、干潮になったりします。
 ですから我々の眼には海の水量が増えたり、減ったりしているように映りますが、本当は海そのものの水量に変化がないんです。又、台風のようにどんなに大風が吹いて怒涛の波が来ても、海の水量は決して増えもせず、減りもしないんです。確かに現在は、南極と北極の氷がとけて、水位が上昇するという我々が深く反省しなければならない温暖化の問題もありますが、水量だけに限って言えば、地球上にある氷や水蒸気、水等すべての水量には、変化がないんですね。
 皆さん良く御存知の般若心経に『不増不減』とあります。これは「すべてのものは空というあり方であり、増えることも、減る事もない」というのです。それは海の水量に変化がないのと同様に、我々の『いのちの尊厳性』も増えもせず、減りもしないという事なんです。ところが我々は他人に(けな)され、(ののし)られたりすると、(たちま)ちにひがんで、すっかり落ち込んで仕舞い、又逆に他人から(おだて)てられ、(ほめ)められたりすると、鼻を高くし、有頂天になり、直ぐにのぼせて仕舞います。まるで温度計のように、相手や、まわりの環境によって、上がったり下がったりして仕舞い、そして自分の『いのちの尊厳』までもが増えたり、減ったりして仕舞うような錯覚を起こします。しかし我々の『いのちの尊厳』とか『人格』は、決して減りもしなければ、増えもしないのに、かってに我々がのぼせたり、落ち込んだりしているのでした。だからといって相手からの理不尽な誹謗中傷を甘んじて受けなさいと言っているのではなく、そのような不当な扱いに対しては、断固拒否しなければならない事も当然あります。



◆信心あればこそ

 趙州禅師は『罵るなら、かってに罵ればいいさ、唾を吐き掛けてもいいんだぜ、それでも足りなければ水をぶち撒けたっていいぞ』という固い信念が、修行によって身に付くという意味で言われたのではなかったのでした。たとえどんなに他人から(ののし)られ、或いは唾を掛けられるような事があろうとも、海の水量が常に一定で同じであるように、決して増えもせず、減りもしない堅固な『仏身』によって我々は支えれている存在だと、私はその時教えられたのでした。
『人間のものさし』で見れば、この表面上の潮の満ち引きがすべてであり、我々はその潮の満ち引きによってすっかり振り回され、チョットした事でも右往左往して仕舞っているようです。『仏のものさし』で見ればどんな事か起こっても増えもせず、減りもしないのであり、そしてそのような『仏身』によって我々は支えられているんだと、深く信じて生きる事がとても大切な事のように思われるのです。この信仰があるのと、ないのでは人生における心の余裕も違ってまいります。もしこの不増不滅なる『仏身』が深く信じられゝば、その場その時の感情に振り回される事がほんの少しなくなって来るのではないかと思います。



雨やどり



 月か隠れると、人々は月か沈んだといい、月か現れると、人々は月か出たという.けれども月は常に住して出没することがない。仏もそのように、常に住して生滅(生き死に)しないのであるが、ただ人々を教えるために生滅(生き死に)を示す。
 人々は月が満ちるとか、月か欠けるとかいうけれども、月は常に満ちており、増すこともなく減ることもない。仏もまたそのように、常に住して生滅(生き死に)しないのであるが、ただ人々の見るところに従って生滅(生き死に)があるだけである。
 月はまたすべての上に現れる.町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも、かめの中にも、葉末(はずえ)の霧にも現れる。人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。月そのものに変わりはないが、月を見る人によって月は異なる。仏もまたそのように、世の人々に従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。

(仏教伝道協会訳大般涅槃経より)



◆あとがき◆

▼(平成10年)10月8日、ジャコビニの流れ星を長男と一緒に見ました。10月は不順な天気が続いていましたが、遇々(たまたま)8日は快晴で、夜の10時頃から約30分の間に、北の空に沢山の流れ星を観る事が出来ました。前回現れたのは今から13年前で、今年13才になった長男が生まれた年でしたので感慨も一入(ひとしお)でした。同じく11月18日の早朝3時半から4時頃まで33年ぶりにやって来たシシ座流星群の流れ星も観る事が出来ました。普段流れ星等見つける事の出来ない私にとって、たった2カ月の間に、これほど沢山の流れ星を観る事が出来てとても感動致しました。




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