平成11年9月27日

 お彼岸の期間、長昌寺では毎朝『迎えの鐘』を鳴らします。庭に咲くキン木犀(もくせい)の放つ清楚な香りを胸いっばい吸い込みながら、暗闇から黎明(れいめい)の朝へと移る時に鳴らす鐘は、私にとってとても気持ちの良い、清々(スガスガ)しい務めです。



南嶽懐譲(なんがくえじょう)禅師の教え

 前回お話し致しました曹洞宗の『曹』の字の語源にもなった、曹谿慧能禅師という指導者から二人の立派な禅者が育ちました。一人は曹洞宗の流れになる青原行思禅師、もう一人は臨済宗の流れにつながる南嶽懐譲禅師という方であります。今回はその南嶽懐譲禅師の教えについてお話しをさせて頂きます。
 懐譲さまが、はじめて曹谿慧能禅師の所にやって来た時の事でした。その慧能禅師から
      『甚麼物恁麼来(なにものかいんもにきたる)』
と尋ねられたのでした。恁麼(インモ)とは中国人の俗語(日常語)で、なんとも名付けられないもの、日本語の『なに物』という程の意味です。つまり『お前さんはいったいなに物だ?』と質問されたのでした。それに対しで懐譲さまが色々とお答えするのですが、慧能禅師は全くお許しになりませんでした。
 現代風に言えば『私は長昌寺の住職です』等という肩書を尋ねられた訳でもありません。『私は○○大学を優秀な成績で卒業しました』等という経歴を尋ねられた訳でもなく、又『私は一級○○士の資格を持っています。』等、生まれてから身につけた表面的な事について尋ねられた訳ではないんです。況(いわ)んや、その時の気分や感情を尋ねられた訳でもありません。
 何故ならそこは『我々が何処から生まれて来て、死んで何処へ行くのか?』という真実の教えを求めて人々が集まる修行道場なのですから、もっと根源的な『イノチそのものについて』尋ねられたのです。
 それからというもの、懐譲さまは『お前さんはなに物だ?』という慧能禅師の質問を心に温めながらご修行され、ついに八年の後、真実の道に気付かれたのでした。そして慧能禅師に、八年前と同じく『お前さんはなに物だ?』と尋ねられた懐譲さまは
         『説似一物即不中(せっじいちもつそくふちゅう)』
と答えられたのでした。
 これは『表面的な言葉や名前等によって、真実そのものを表現する事も出来ないし、又幾らそのものを分析や、分解しても、そこから真実は生まれて来ない』という意味なんです。その答えが許された懐譲さまは晴れて慧能禅師のお弟子として、仏法の正しい相続者となったのでした。



◆ご飯粒の中に御ほとけ様がござる

 これは朝日新聞の『心のページ』に掲載されていた『仏がござる』というお話です。物をとても大事にされるおじいちゃんが、孫に対していつも『すべての物には御ほとけ様がござる。決して疎かにしてはいけないよ』と話されていました。ご飯粒をこぼすと決まって『ご飯粒の中には御ほとけ様がござる』と言って注意をされるのでした。
 それは大正時代の事、小学校で初めて顕微鏡を購入しました。顕微鏡とは、物を拡大して見るものですね。その時先生が『この顕微鏡で見ればどんな小さいものでも見える、見たい物があれば学校へ持って来い』と言われたのでした。そこでおじいちゃんから『ご飯粒の中には御ほとけ様がござる』と日ごろ教えられていたその子は
『先生! オラのおじいちゃんは「ご飯粒の中には御ほとけ様がござる」といつも、オラに言っているが本当か?』と尋ねたんですね。
すると先生は
『ご飯粒の中に御ほとけなんぞおるもんか! ご飯粒は炭水化物と水から出来ているんだ。帰ったらおじいちゃんに教えてやれ!』と言われたのでした。その子は家に帰って早速先生から教えられたとおり『おじいちゃん! ご飯粒の中には御ほとけ様なんかおらんぞ、炭水化物と水から出来ているんだ!』と言いました。するとおじいちゃんは烈火の如く怒り出し、そしてお仏壇の前に座ると肩を震わせて泣き出したのでした。
 その子が成長し、大人になった時『ご飯粒の中には御ほとけ様がござる』と教えて呉れたおじいちゃんは、決して私に嘘を言わなかったのだと気が付いたという話なんです。
 確かにご飯粒を分解すれば炭水化物と水から出来ています。しかし炭水化物と水をどんな上手に調合してみても決してあの美味しいご飯は出来ませんよね。
 人間は物を分析し、分解する事は出来ても、逆にイノチある物を作り出す事は決して出来ないのでした。その事をこのおじいちゃんは『ご飯粒の中に御ほとけ様がござる』と言われたのでした。
 あらゆる学問が物事の分析から始まるように、人の生命を扱う医学でも、初めは冷たい死体をズタズタに切り刻む解剖学から始めるのだそうです。
トンチで有名な一休さんの道歌(一体骸骨)に
『桜木を 砕いて見れば 花もなし 花をば春の 空ぞ持ち来る』
とあり、又
『年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花の在りかを』
というのもあります。
 美しく咲く桜の花の素はいったい何処にあるのかと、桜の木を割って見ても、その桜の花の素など何処にも見つからないのでした。ですから我々が幾ら物事を分解し、分析したとしても、そこからは決して花の在りかも、もののイノチも見つかりません。



混沌(こんとん)に目鼻を付ける

 我々がアタマで、ものを理解しようとする時、見る側の我々と、見られる側の対象物という、主観と客観の二つに分けて初めて分かるのでした。イヤ本当は分かったような気がするだけなのかもしれません。
 これは昔々の中国の物語です。北の王様と南の王様が、いつもお世話になっているという中央の『混沌』という王様のご恩に報いようと考えていました。
 『七(きょう)』といって人間の顔には七つの穴があります。つまり二つの眼の穴と二つの耳の穴、二つの鼻の穴と口の七つの穴です。ところがこの混沌という王様の頭は、眼も鼻も耳も口もないノッペラボウだったんです。そもそも混沌という言葉の意味は天地が分かれず、すべての物が一つに入り混じり、区別がつかない状態の事なんです。そこで北と南の王様は話し合い混沌の顔に一日に一ヶづつ穴を開けて恩に 報いようと考えたのでした。乱暴な恩返しもあったもんです。
 早速今日は耳の穴、明日は眼の穴という具合に穴を開け始めました。そしてとうとう七日目に七つの穴を開けた時、混沌は死んで仕舞ったという物語なんです。
『目鼻を付ける』等と熟語にもなっていますが、我々が分別し、目鼻を付けたり、評価をし始めた時には、既にそのもののイノチを殺して仕舞っているのかもしれません。



◆イノチを感じる

 今日我々は身体全体を使って物事を感じ、イノチを感じる機会が少なくなって来たような気がします。日常生活の殆どが、アタマだけを使って損だ得だ、勝った負けた、楽だ苦だ、愚かだ知恵者だ、美だ醜だ等、目先の事に振り回されて仕舞っているようです。
 しかしアタマというのは所詮(しょせん)我々の身体の一部分でしかない訳で、その一部分でしかないアタマで考えた事が本当に正しい事なのか甚だあやしい所があります。
 そこで我が道元禅師は、アタマで物事を理解するのではなく、身体全体を使って、つまり重心を下げてイノチが実感できる坐禅を我々に勧められたのでした。
 お彼岸の鐘を撞いていると、清々しい夜明けを眼で感じ、鼻には木犀の香りを嗅ぎ、耳には鐘の音を聴き、眼と鼻と耳等という私の五感が互いに協力し合いながら、今・ここ・私のイノチを実感する事が出来ます。
 そして我々が木犀の香りを嗅ぐ時、鼻以外の他の感覚はお休みという訳ではありません。又鐘の音を聴く時には耳以外の他の感覚はすべてお休みという事ではなく、本当は身体の全体を使い、主観と客観というこつに分かれる以前のイノチを実感していたのでした。
 その事実を南嶽懐譲禅師は八年の修行の後『説似一物即不中』と気付かれたのでした。


雨やどり


 金持ちではあるが愚かな人がいた。他人の家の三階づくりの高層が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。早速、大工を呼んで建築を言いつけた。大工は承知して、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階に進もうとした。主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。『わたしの求めるのは土台ではない、一階でもない、二階でもない、三階の高楼だけだ。早くそれを作れ』と。
 愚かな者は、務め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める。しかし土台のない三階はあり得ないように、務め励むことなくして、良い結果を得られるはずがない。

(仏教伝道協会訳、仏教聖典より)



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