平成12年4月9日

 霊雲志勤(れいうんしごん)和尚(中国の唐時代の禅僧)は身体も心も疲れ、歩くのもやっとの状態でした。思えば故郷である福建省(台湾の対岸)の長渓を後にして既に長い年月が過ぎようとしていました。小さい時から心に抱いていた『私はこの世に何の為に生まれて来たのか?』『自分とはいったい何物なのか?』等の疑問を解決しようと、広い唐の国中の善知識を訪ね歩いたのですが、そのだれからも自分が納得するような答えが得られませんでした。霊雲和尚は最期の救いを求め、1500人もの修行者が集まる当代傑出の名僧、為山霊祐禅師のもとで出家し、仏道修行をはじめたのでした。
 ところが、為山霊祐禅師の道場では、来る日も来る日も坐禪中心の生活、お師匠様にどんな質問をしても、ただ『じっくりと坐りなさい』と言うばかりで、何も答えてくれません。仕方なく霊雲和尚は、お師匠様や他の修行者とともに坐禪をしておりましたが、このまま坐禪ばかりの修行を続けて行って良いものかと深く悩んでもいたのでした。  故郷を後にしてから、既に30年の歳月が過ぎ、季節もいつの間にか寒さの厳しい冬から初春へと移っていたのでした。そんなある日の事、霊雲和尚はお師匠様にお休みの許可を貰い、暫く道場を離れる事にしました。何処へ行くというあてもありません。或いは、故郷である長渓に向かって歩いていたのかもしれません。幾日も山を越え、谷をわたり、身体も心も疲れはてていた霊雲和尚は、ある峠を越えて少し休もうと道端に腰をおろした時の事でした。フッと眼下の山里を見ると、山里一面に、桃の花が美しく咲き綻(ほころ)びている様子が眼に入って来ました。それを見た霊雲和尚は『あぁ!そうだったのか』と、心の中で叫び、長年抱いていた疑問がその時氷解したのでした。



赤城山(セキジョウザン) 長昌寺

 長昌寺の山号は赤城山(セキジョウザン)といいます。寺の裏からは赤城山(アカギヤマ)がよく見え、昔からこの地にとっては、切っても切れない身近な存在でした。ですからこの長昌寺の山号にも『赤城山』と名付けたものだと思われます。
 冬になるとこの地はフェーン現象でカラカラに乾いた『赤城おろし』と呼ばれる季節風が吹き荒れます。
 ある冬、友人がこの長昌寺に泊まった時の事、夜中にゴォーゴォーと吹く空っ風の音と、本堂の四隅に吊るされている風鐸(フウタク)が、風でガァワンガァワンと鳴る音が気になって、中々寝つけなかったと言います。
 それほど風の強い、寒い冬でも、寺の庭にある梅や、コブシ、桜は何の疑いもなくその蕾を大きくふくらませているのでした。そして春という時節因緑を得て、それぞれいっきに花を咲かせるのでした。



◆契約

 『現代は契約の時代だ』と言われています。車を月賦で買う時も、マイホームをローンで建てる時も、病院へ入院する時も、又教会で結婚式をあげる時も新郎と新婦はお互いに夫として、妻としてそれぞれ契約をしなければなりません。そして宗教にも契約が必要となり、あらゆる事が契約によって成り立っており、もしその契約が破られれば、直ちに契約不履行として、差し押さえられ、告訴され、退院せさられ、あるいは離婚の原因ともなるのでした。
 それに比べ昔は、とてものんびりしておりました。敢えて契約をしなくてもお互いの信頼関係によって成り立っておりました。物を買う時でも『お通い帳』に記帳して貰えば『つけ』で何でも買う事が出来ました。そして多少支払いが滞っても、大目に見て呉れるところもありました。
 教会の結婚式で『「お前を愛しているよ」と一日一回必ず妻に言わなければならない』という妻との契約を思い出した夫が、唐突に『お前を愛しているよ』等と言ったりしたら『あなた!ちょっと変よ!最近浮気でもしているの』と逆に勘繰られてしまうのがオチだと、武井哲応老師が法話の中で話された事を思い出します。
 ですから『契約』という条件付きの信仰には、保険や月賦の契約のように、もしかすると裏切られるのではないか?場合によっては契約が不履行になるのではないか?と、お互いに『疑い』や『不信』という恐れがあるように感じられるのです。



◆疑いもなし

 赤ちゃんが、何の疑いもなく安心してお母さんの母乳を吸っているように、大自然の中に身を任せて咲く桃の花を見て、霊雲和尚は人間的な取引のない、本当の生き方を教えられたのでした。その事を道元禅師は
『春風に ほころびにけり 桃の花 枝葉にわたる 疑いもなし』
と詠まれるのでした。
又、九条武子さんの歌に
『見ずや君、明日は散りなん 花だにも力の限り ひと時を咲く』
というのがあります。
明日には風が吹いて散ってしまうかもしれないのに、どの花もどの花も、今、ここに頂いたいのちを、何の疑いもなく、力の限りに咲かせているのでした。

 そこには我々人間のように『不信』や『疑い』という恐れが一つもなく、ただ・今・ここに与えられた『いのちの花』を咲かせているのです。そして自分のいのちを、力の限りに咲かせる所に、悟りの生き方があり、霊雲和尚は今までの生き方があたかも自分の坐っている座フトンを、自分で一生懸命引っ張ろうとする愚かさにも似ていたと気付いたのでした。そして我々が知る知らないにかかわらず坐禪そのものが、自分自身の悟りの花を咲かせる生き方であった事にも気が付いた霊雲和尚は、さっそくお師匠様の為山霊祐禅師もとに戻り、お師匠様から正しい仏法の相続者であると認められたのでした。


雨やどり



 釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊にウラミを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢しても 一物も得られず、ただ謗り(そしり)の声を聞くだけであった。
 そのときアーナンダは釈尊にこう言った。『世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います』『アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか?』『世尊よ、また他の町へ移ります』『アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしは謗りを受けたときには、じっとそれに耐え、謗りの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は利益・害、中傷・ほまれ、たたえ・そしり、苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう』

(仏教伝道協会発行『仏教聖典』p122)



◆あとがき◆

◎2月13日の日曜日は静かな朝でした。この日は昨年の暮れ、寺の役員さん達が、寺の西側山林の下草刈りをした時の枯れ草や、倒木の枯れ枝を燃やす日で、風もなく、刈った草も程よく乾燥し、燃やすにはもってこいの日だと思っていましたが、8時過ぎ『総代長から、赤城の山頂に雲がかかっており、これから大風が吹くから今日の下草燃やしは中止にしたい』と連絡が入りました。風もなく静かだったので、にわかには信じられなかったのですが、10時頃になると、一転して赤城おろしの大風が吹き始めました。知らずに行っていれば、大変な事になっていたかもしれません。長い人生で身につけた長老の智慧の素晴らしさに感心させられたと同時に、これからも是非、長老の智慧を若い世代に伝えて行って欲しいと願うのでした。
◎3月3日〜5日鹿児島の友人の寺へ行って来ました。その帰りに前々から訪ねてみたかった鹿児島県東市来町美山にある薩摩焼の窯元(寿官陶苑)を訪ねました。薩摩焼の宗家である沈寿官氏は今から400年前、秀吉の朝鮮侵略の際、捕虜として連れて来られた李朝時代の貴族を父祖とします。薩摩(現在の鹿児島県)に連れて来られた彼らが、作った李朝の白磁に似た美しい『白薩摩』は、藩主の島津公の厳しい監視下で、藩御用以外には生産する事が固く禁じられ、一般には水ガメ等に象徴される素朴な黒地の『黒薩摩』と呼ばれるものだけが供されておりました。
 因みに戦前の第一次東条内閣の時に、外務大臣として入閣し、日米平和への道を模索し、又鈴木内閣の時にも外務大臣を務め、戦争終結に奔走した東郷茂徳は、東市来町美山の出身で、同じく薩摩焼陶工の子孫だという事です。
 初代が鹿児島の地に上陸して400年という節目の年に当たる1998年(平成10年)14代薩摩焼の宗家沈寿官民がNHKのラジオ深夜便『心の時代』で話された次のようなお父様の教えに深く感動致しました。それはおおよそ次のような内容だったと思います。『二つの祖国を持ち、時代の波に翻弄され続けてきた私に、先代の父は、粘土を轆轤(ロクロ)の端に置けば、振り回され上手に形が作れないように、自分の心も、端に置けば時代の荒波に翻弄されて仕舞うのだ。陶工か粘土を真ん中にしっかりと置いてロクロを回すように、我々の心も常に真ん中に置き、真実を見つめなければならないと教えてくれた』というのです。流れの速い現代を生きる我々も、時流に乗り遅れる事を恐れ、何が真実なのか?何が本物なのか?ものの真偽を見分ける事が出来なくなっているのかもしれません。いつの日か彼にお逢いしたいと思っていた所、この度、寿官陶苑で新たに宗家になられた15代宗家にお逢いし、親しくお話しをする事が出来ました。
 又鹿児島県の南部にある知覧特攻平和会舘を訪ねました。そこには太平洋戦争末期に知覧等の各飛行場から飛び立ち、自らの命と引換えに、飛行機ごと沖縄沖のアメリカ艦隊に突っ込んで行った1036名の若い戦死者の遺影や、死ぬ直前に書かれた遺書等多数の遺品が展示されており、中には16〜7歳の自分の子供のような年頃の児もおり、決して二度とこのような悲惨な戦争を起こしてはいけないと心に誓いました。その1036名の戦死者の中には足利出身者も二名おり、名簿で調べると二名ともが、この長昌寺のある筑波・久野地区の出身者だという事がわかりました。足利に帰って、寺の役員さんに聞くと尋常小学校で同級生だったりして、良く知っていると教えられ、特攻が身近な出来事だったと、深く考えさせられたのでした。記念館の隣にある特攻平和観音の前で、世界の恒久平和と特攻戦死者のご冥福を心からお祈りし、帰って参りました。




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