平成13年4月8日

 『本尊様が、一つにしっかりと決まっていないようでは、あなたの信じている宗教は[まぜ飯]みたいじゃないですか?』と、彼女は言うのでした。
 それは、埼玉県のJR浦和駅西口で托鉢をしていた時の事です。その女性は、托鉢している私に近付き『あなたの宗教のご本尊様は何ですか?』と質問してきたのでした。
 托鉢をしていると、色々な方から、声を掛けられます。そしてそのような出会いを通して、私も大切な教えを頂く事があり、その時もそんな大事な出会いとなったのでした。



◆本尊様

 本尊様とは申すまでもなく、お寺の本堂の真ん中にお祀りしている仏様や、菩薩様の事です。そこで『私の寺の本尊様はお釈迦様ですが、他のお寺ではお釈迦様にかぎらず色々な本尊様をお祀りしています。たとえば、私の師匠寺の本尊様は地蔵菩薩だし、知人の寺では阿弥陀様が本尊様です。他にも薬師様を本尊様としていたり、或いは観音菩薩を本尊様としているお寺もあります。又仏様や菩薩様にかぎらず七福神や、鬼子母神(入谷の鬼子母神が有名)帝釈天(フーテンの寅さんでお馴染みの柴又の帝釈天が有名)、お稲荷さん(愛知県にある妙厳守の豊川稲荷が有名)等をお祀りしているお寺もあるくらいなんです』とお話すると、彼女は『どうしてそんなにたくさんの本尊様かいるんですか?一つの教えを信じるなら、本尊様も一つでなくては、おかしいじゃないですか?それじゃ!あなたの信じている宗教は[まぜ飯]みたいじゃないですか?』と言うのでした。「『まぜ飯』とはよく言ったなあ」とその時、とても感心させられて仕舞ったのでした。 『まぜ飯』とは白いご飯でなく、色々な具が入った『炊き込みご飯』や『五目チラシ』のようなものです。ですから彼女は、本尊様として色々なものをお祀りしている我々の教えを評して『まぜ飯』と言ったのでした。



◆七福神

 あるキリスト教者が『仏教について』次のように話していました。それは『何故仏教は、他の宗教の神々に対して寛容で、しかもそれを取り入れ 同化する事が出来るのか?』というものでした。言われてみれば、七福神の中の毘沙門天、吉祥天、弁財天等はインド古来の神々であり、福禄寿は中国の神であり、恵比寿や大黒にいたっては日本国有の神々で、どれも仏教本来のものではありません。ですからキリスト教のように唯一の神を信じる人から、仏教のように他の宗教の神々を、平然と祀っているのを見ると、とても不思議に映ったのかもしれません。
 キリスト教やイスラム教、ユダヤ教等は、唯一の神を信じる宗教なので『一神教』と呼ばれ、それに対して八百万の神々を祀る日本神道等は、多くの神々を祀るので『多神教』と呼んで分けています。それでは色々な本尊や、七福神等をお祀りしている仏教も『多神教』と呼ばれるのでしょうか?



◆気付きの宗教

 『神仏に祈る』とか『神も払もあるもんか』等と使われるように、我々は神と仏を同じように考えています。一般の宗教が、自分の外に、ある超人的な神の存在を認め、その神を信じることによって救済されるという関係にあります。それに対し、仏教は真実の道を歩まれたお釈迦様の生き方をお手本に、自分もこの人生を歩んで行こうとする教えであります。
『私の代りに食事をしてくれ』と言っても、私は少しも満腹になりません。『私の代りに大・小便をしてくれ』と言っても決して間に合わない命を、お互いに生きているのであり、この事実は仏教徒であろうが、或いは他の宗教の信者であろうが、決して例外ではありません。ですから仏教は、一神教や多神教等の『信じて救われるという信仰の宗教』という意味合いよりも『頂いたこの命を生きるのは、自分しかいないのだ』と受け止めて生きる『自覚の宗教・気付きの宗教』だといえます。そんな我々の生きるお手本がお釈迦様であり、そのお釈迦様をお手本に、この人生を歩もうとする人々は皆『菩薩』と呼ばれるのでした。そして他宗教の神々であってもお釈迦様の教えに改宗し、帰依した超人的な存在を七福神等の仏法を護る神様(護法神)としてお祀りしたのでした。
 道元禅師は『世尊在世に、一毫もたがわざらんとする、なほ百千万分の一におよばざることをうれへ、およべるをよろこび、違せざらんとねがふを、遺弟の畜念とせるのみなり』(正法眼蔵仏道の巻)お釈迦様と少しも違わない生き方をしようとするのが、私[道元禅師]の願いです。そして百千万分の一ほども及ばない事を嘆き悲しみ、逆にほんの一歩でも近づけた事を無上の喜びとするのです。そのようにお釈迦様のお示しに違(たが)うまいと願うのが、私をはじめとする仏教徒の思いですと述べられています。
 『あなたの信じている宗教はまぜ飯みたいね』と言った彼女の言葉は仏教の特徴を、的確に表現した言葉だと、今では受け止め、頂いております。


雨やどり


ぼくが ここに   

まど・みちお作

ぽくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぽくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ しか
ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として




◆あとがき◆

▼1月9日の早朝、そろそろ『朝のおつとめ』を始めようとしていると、妻の兄から『たった今、父が目を閉じた』という電話、すぐに3人の子供達を起こし、妻とともに車で実家のある月谷町へ行くと、眠るようにべットに寝かされていました。まだ温かい身体を子供達とさすり、声を掛けても返事がありません。時とともに冷たくなっていく身体、享年79歳、晩年は孫達に会うのを唯一の楽しみに、月谷町からここまでバイクでやって来ておりましたが、ここに1、2年は身体を壊し、入退院の日々、最期は自宅で、義母に見取られた安らかな旅立ちでした。草葉の陰で、一番楽しみにしていた長男の高校合格の報告を聞き、喜んでくれているものと思います。




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