平成7年8月29日発行『禅僧武井哲応老師の宇宙』より

 昭和56年、本山を送行し、師寮寺に帰って間もなくの頃、武井哲応老師の資(弟子)全補師に誘われるまゝに、老師の住職地である高福寺の参禅会に初めて出席した。本山に於いて、今を代表する老師方の提唱を、身には付かぬまでも、私は聞いて来たのだ、という自負の念もあり、不遜な言い方ですが、老師に対してあまり期待もしていなかったのが、その時の偽らざる思いでした。
 夜坐の止静が鳴り、シーンと静まりかえった堂内に、かすれた、でもしっかりした声で『公案現成、羅籠いまだ到らず』という普勧坐禅儀の一文を引かれ、提唱をはじめられました『我々は、自分自身で作り出した鳥籠や魚を入れる羅(あみ)に縛られてしまい、本来の自由自在な自己を見失ってしまっている。しかし我々が今、行じている坐禅は、そして我々の自己存在そのものは、そんな人間的な価値観、概念など全く寄せ付けぬものであり、又それによって邪魔されるようなものでもない・・・』と、

 この単純明快な老師の教えは、乾いた砂に雨水が浸み込んで行くように、心の底へ吸い込まれて行った。そしてその続きの話に、私は耳を澄ませました。
 『上智下愚を論ぜず利人純者を簡ぶこと莫し』(知識の有る無しにかかわらず、又利発だ、愚鈍だ等という人間の気根には全く関係ないという意味)今まで何度『普勧坐禅儀』を読んで来たであろうか。それまでの自分は「知識という花嫁衣装をいっぱい詰め込むことによって極楽浄土へ嫁ぐことができると、その為には知識博覧がこの上もなく大切なことであり、それによって自分をすこしはましな人間にすることが仏教である」と深く思い続け、又行じても来たのでした。そこを老師は『紅花(べにや、はな)を付けずに参るべし』(極楽浄土のお参りに、ワザワザ花嫁衣装で着飾らなくても、着の身着のままの今のままでお参りが出来るという真宗の教え)と、追い撃ちをかけるように、ピシャリと教導するのでした。そして「私という人間がいくらましになってもそれは仏道とは天と地ほどの隔たりがあり、そのような人間としての業の延長線上に仏があるのではない。」とつくづく私は思い知らされたのでした。
 ある時の正法眼蔵唯仏与仏の巻の提唱の中で老師は『仏法は、人のしるべきにあらずこのゆえにむかしより凡夫として仏法をさとるなし、ひとり仏にさとらるるゆえに、唯仏与仏乃能究尽といふ』を引かれ『先づ〔人〕と〔仏〕との間の断層の深さに身震いを覚え、〔人〕と〔仏〕との隔絶の絶対さを知ることに対して切実でなければならない』と教える。
 以来、老師遷化に至る足かけ七年間、老婆心溢れる法会に安心して身を任せ、教えを乞うことができたのでした。何故なら老師こそは、〔人〕と〔仏〕との間の断層の深さに身震いを覚え、そして人と仏との隔絶の絶対さを知る人であったからです。


武井哲応老師


明治43年(1910年)秋田県雄勝郡羽後町の農家に生る。9歳で近所の大慈寺に預けられ、15歳の時、得度。駒沢大学で学問。秋田市源正寺、秋田県角館町雲巌寺、福井県小浜市発心寺、横浜市総持寺、上海に行脚。昭和16年(1941年)高福寺第17世住職。本山の役職、足利工業大学理事、学監を歴任。30有余年にわたり道元禅師正法眼蔵を提唱。多くの著書や書画あり。


歌人の松葉直助、書道家の相田みつを、画家の石井壬子夫、などが参禅す。昭和62年(1987年)77歳遷化。

高福寺ホームページ http://www.page.sannet.ne.jp/zentake/photo_album.htm

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