(平成9年8月『賢治の学校』の鎮魂の儀式に参加して)

 『何故私ではなくてあなただったのか?、そしてあなたであって、私ではなかったのか?』それは追悼の儀式に於いて、各自が幾つかの事例とその犠牲者名を記入した人型短冊を読み上げ、その犠牲者に対する慰めの、そして癒しの言葉掛けの一幕であったと思います。『何故私ではなくてあなただったのか?、そしてあなたであって、私でなかったのか?』家庭内暴力をする息子を、止むに止まれず撲殺して仕舞った父親に対して、そしてイジメ子だった君が、何かをキッカケにイジメられっ子になって仕舞い、そのイジメを苦に自死して仕舞ったそんな子ども達に対して、その癒しの言葉は投げ掛けられた。何故あなたが死んで仕舞い、私がこうして生きているのか?何故私ではなくて、あなただったのか?それが私であっても何んら不思議ではなかったのに、という思いを込めての言葉掛けであったと思います。
 仏教は、神の配剤によって総てを理解しようとする教えではありません。我々が生きているこの世界も又神の被造物ではありません、仏教ではこの世の総ては縁起によって成り立っていると教えているのです。ですからそこに神を持ち出す必要もないんです。それなればこそ、この『何故私ではなくて、あなただったのか、そして、あなたであって、私ではなかったのか?』という投げ掛けは我々仏教者にとって深い意味のある、そして重い言葉となるのでした。ではその加害者と被害者との間にはそんなにも深く、超え難い隔たりがあったのでしょうか?否もっと身近な問題として私とあなた、自分と他人との間にも、そのような壁立千仭の溝があり、お互いに理解し、通じ合う事が出来ないのでありましょうか?
 まずそんな我々に道元禅師は『正法眼蔵随聞記』の中で『人の心もとより善悪なし、善悪は縁に随って起こる、我が心もとより悪しと思う事なかれ、ただ善悪に随ふべきなり』と教え、又浄土真宗をお開きになった親鸞聖人も同じように『往生の為に千人殺せといはんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし』と、教えています。私の心が良いから、人を殺さないのではない、又殺そうという悪い心があっても人を殺すとは限らないと言うのです。それは、何かの縁によって、人を殺さないだけである、と説くのです。

 ですから誰れでもが、この「縁によって」良きにも悪しきにも変化をして行くという事であり、それは決して他人事(ヒトゴト)ではなく、自分であったかもしれないし、そして自分もなりうる可能性があるという事なのです。ですからその事を冷静に見透す確かな目を持つ事が、我々が生きて行く上でとても重要になって来ようかと思います。今回私達が携わった施食会も、縁起を説く仏教であればこそ、当然の結果として、生まれ出た法要であり、この施食会こそそんな相手の立場になって考えられる、そして自分というものを反対の立場から見つめ直す契機ともなり、儀式ともなるのではないかと思っています。


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