平成9年4月号

 寺の老桜の花も散り、すっかり葉桜になって仕舞いました。春は年度がわりの季節、新しい職場で、新しい学校で、心新たにご活躍されている方もおられるかと思います。
  私の知り合いの子供さんも今年高校に入学しました。この冬にお伺いした時には、その子の受験勉強で家中が、ピ〜ンと張り詰めた感じがして、他人の事ながら大変だなあと思っておりました。過日、用事があって電話をしたら、見事に希望の高校に合格したとの事、その家族の苦労も、もちろんその子本人の努力も知っ ておりましたので私も『自分の事のように喜び』ました。
 永平寺をお開きになった道元禅師は『しづかに随喜すべきなり』と私達に教えています。『随喜』とは、喜び随う事で相手の喜びを『自分の事のように喜ぶ』という意味です。でも他人が良い事をしたからといって素直に『自分の事として喜ぶ』事は簡単なようで中々難しいようです。大相撲で自分のひいきのお相撲さんが勝った時に 『自分の事のように喜ぶ』事とは、少しおもむきが違うように思います。



◆あるお寺さんの落慶式に招かれて

 数年前、私は東北地方の縁のあるお寺の本堂新築の落慶式に招かれた事がありました。この長昌寺でも皆さんのお力によって本堂はじめ諸堂が立派に新築され、平成7年の春には、大勢のご寺院さんのお手伝いによって、落慶法要や開山忌(かいさんき)等の法要が営まれました。それと同じようにそこのお寺でも、落慶式にあわせて色々な法要をするので、その手伝いに行った訳なんです。
 その時そこのご住職さんから頼まれた私の勤め(仕事)は『接頭(せっじゅう)』という役目でした。それは落慶法要に参加し、お手伝いをして下さるご寺院さんへお茶やお菓子をお出ししたり、法要の導師(どうし)を勤められるお寺さんが履いて来た履物をそろえたり、場合によっては衣やお袈裟の着替えの手伝いや準備などの雑用をする役目なんです。このような事を言うと、道元禅師に叱られそうですが、お坊さんとしての専門的な知識がそんなになくてもできるそのような勤めなんです。
 普通、地方の寺院でその役目をまかされるのは、一般に出家して日の浅いお小僧さんだったり、或いはお茶を習っている人や、あるいは事情をよく知っているお檀家の女性だったりするわけなんです。ですから私のように遠くから手伝いに行ったものが勤める役目ではないと思っていたし、それよりも何よりも私は『接頭』の役目を勤めるような、そんな小僧っ子ではないと自分自身でも自負していたんです。ところがいざ行ってみると私の役目はその『接頭』だったんです。
 皆さんは職場や地域社会で、自分に対する評価が自分の考えていたのより、ずう-と低くかったり、或いは軽く見られたりして憤慨(ふんがい)した事など、今までありませんでしたか?



◆自分ではどうする事も出来ない増上慢の心

 私の場合「言って頂ければどんな事でもやりますよ!」と言ってはみたものの、実際『接頭』という役を勤めるように!と言われた時には、正直な所ムカーッとしたんです。『なんでもやりますよ』と穏やかにうわべをつくろってみても、相手から見えない私の心の奥底からは『はるばる遠く足利から来たのに『接頭』という役をさせる事はないだろう?まったく俺を小僧扱いにして、ここには若いお坊さんはいないのか?お檀家さんでお茶を習っている人はいないのか?せっかく法要に出られると思って、重たい思いをして衣やお袈裟を持って来たのに』等という慢心(まんしん)が沸々とわき起こって来たんです。そして悲しいかな自分ではそんな増上慢のこころをどうする事も出来ないんです。
 しかも私のあてがわれた所は子供部屋。そこには掃除機とか、タンスとか、布団とか、大勢のご寺院さんが入る控え室を確保する為に邪魔になった家具等が乱雑に詰め込まれていたんです。でも私が使う接待用の茶碗・お茶・お盆・急須・懐紙・菓子皿・茶托・ポット・おしぼり等、私の仕事がし易いように気配りがなされ、子供の勉強机の上に、順序良く、きれいに並べられてありました。しかしその他は只雑然としており、まったく押入れのような使われ方をしていました。



◆ほとけ様からは花の裏側しか見えない

 法要も順調に進み、その休憩の時間に、そこの住職さんが私の所に来て、こう言ったんです。「すまないね、この『接頭』の役をお願い出来るのは、親しいあなたしかいないんですよ」と、その時、私はハッと気付かされたんです。
 普通だったら、私も他のご寺院さんと同じようにお客様として、水打ちのしてあるきれいな玄関から、季節の花の活けられた床の間のある、ご寺院さんの控え室に通されるわけです。でも我々は本当に親しい人、気心の知れた人というのは、床の間のある部屋ではなくて、居間やお勝手に通します。主婦の方ならば特に感じられると思うのですが、見ず知らずの、或いは余り親しくない人がお勝手や居間にズカズカと入って来られると余り良い気持ちがしません。自分達の生活空間である居間やお勝手などの裏方は見せたくないんです。
 そして私の通された部屋は裏も裏、物置のような所なんです。そんな所は他人には見せたくないのが人情なんです。でも考えてみれば、仏様に飾る花も、我々の方から見ればきれいに見えますが、逆に仏様の方からみればきれいな花も裏側しか見えないんです。



◆自分の事のように喜ぶ、思いやりの心

 落慶法要というめでたい席に招かれ、そこの住職さんはじめお檀家の皆さんの喜びを『自分の事のように喜び』に行ったはずが、おれが、おれがという慢心によってすっかり『随喜』し『他人の喜びに随う』という大切な事を見失ってしまったのでした。私はその時に『接茶』という役目をさせてもらった事によって、自分の眼では観る事の出来なかった自分のおごり昂り(たかぶり)の慢心を観させてもらった様な気がします。そしてそんな増上慢の心をどうする事も出来ないでいる我々に、そして私に対し道元禅師は、 只『しづかに随喜すべきなり』と教えているのでした。
 昔から我が宗では、落慶法要などのお手伝いをしてくれるご寺院さんの事を「随喜ご寺院」と呼んでいます。それは『誰にでもある、おれが、おれがというおごり、昂り(たかぶり)の慢心を、最初から無条件に放棄し、その人の喜びを自分の事のように喜んでくださる人達』という意味だそうです。ですから他人の喜びを素直に、そしてしずかに『自分の事のように喜べ』る、そんな『思いやり』の心を持って、私も勤めていけたらなぁと思っております。



◆あとがき◆

今回から先代の住職様に代わりまして『寺報』の紙面を担当させて頂く事になりました。檀信徒の皆さんとご縁を深めさせて頂く為に、私なりに仏の教えを伝えて参りたいと思います。到らぬ所もあるかと思いますが、どうぞ長い目で見守って下さい。




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