平成9年11月24日号

 今年は何処でも柿が豊作だったようです。寺の次郎柿や富有柿の木もたわわに実を付け、名も知らないたくさんの小鳥達が、そして何処から来るのか、メジロらしき鳥も、赤く熟した柿をついばみにやって来ていました。小鳥にかぎらず我々人間を含めたあらゆる動物達は、外界から食べ物を取り入れ、それを栄養として生きて行かなければなりません。



◆動物は自分の身体を環境に合わせて変えた

 ある動物学者のラジオの講演を、聞いた事があります。それは蟻ばかり食べるアリクイという名前の付いた動物を、取り上げた次のようなお話でした。動物園等で飼育されているのは別として何故日本にアリクイはいないのかと言えば、アリクイが一日で食べてしまう約6万匹の蟻を賄(まかな)うだけの蟻塚(ありづか)が日本にはないからだというのです。ですから蟻塚(ありづか)のいっぱいある南米にしか住んでいないというのです。そのアリクイは大きな蟻塚(ありづか)を一撃で壊してしまう強力な爪のある前足や、その蟻を一度に沢山捕まえる事の出来る70cmというとても長い、進化した舌を持ち、そして必要の無い歯は無くなったというのです。
 それらアリクイを含めた、象やキリン等の動物達は、何10万年、何100万年、或いは何1000万年という、気の遠くなるような年月を掛けてゆっくりと、静かに自分達の身体を環境にあわせて、変化させて来たというのです。
 ですから勿論アリクイが居たから、蟻塚が出来た訳ではなく、逆なんですね。キリンの首が長くなったのも、象の鼻が長くなったのも、環境に適応した結果であり、それら動物達は長い時間を掛けて、自分達の住む環境に自分自身の身体を変化、適応させて来たというんです。これを難しい専門的な言葉で言え ば、自体形成変化(じたいけいせいへんか)というのだそうです。勿論我々人間も、今のような形になるまでは、他の動物と同じように自分自身を環境に合わせて変化させる、自体形成変化をして来ました。



◆魚は水をもって命とし、鳥は空をもって命とする

 ですからその動物学者は『我々を取り巻いている自然は、我々にとって命である』と言いたかったのではないでしょうか?同じ様に、道元禅師は、魚と鳥を引き合いに出され『鳥もし空をいづれば、たちまちに死す。魚もし水をいづれば、たちまちに死す。魚は水をもって命とし、鳥は空をもって命とする』と教えておられます。魚と水は一つであり、鳥と空も一つであり、私とこの大自然も一つであるというのです。
 呼吸を例にあげれば、私は大自然を呼吸して生きています。呼吸は私という個人を超えた命の表情であり、どこまでが私、或いはここまでが私、という区切りがありません。ですから私と大自然とは決して切り離す事が出来ないんです。魚が生きる場である水から出たら、たちどころに死んで仕舞うように、私がこの生きる場である大自然と切り離されてしまったらたちどころに死んで仕舞います。私が今生きている大自然という環境と、この私の命とは決して二つに分ける事が出来ないものなんです。仏教では私の生きる場としての環境を依報といい、私自身の命を正報といいます。そして依報と正報は決して二つに分ける事が出来ない関係であるというので依正一如(えしょういちにょ)というのでした。



◆人間は自分の好みに合わせて環境を変えた

 ところが今のような姿になってから人間は、文化と称して自分自身を変えずに周りの環境を変えて来て仕舞いました。今では、人間は、地球上の至る所に住んでいます。そのままではとても住めない南極にも、そして砂漠にも住んでいます。自分を変えずに周りの環境を、人間にとって住みやすい居住空間に変えて仕舞った結果なんです。
 それでも昔の人達は、自分を取り巻く環境をそのままにして、自分自身の生き方を功夫(くふう)する術(すべ)を知っていました。例えば暑い夏には、暑さをそのままにして風鈴(ふうりん)を吊(つ)るし、涼しさを演出し、又それぞれの季節でもうまく環境と調和しておりました。ですから我々は今よりもずうっと一杯(いっぱい)季節を実感する事が出来ました。
 しかし、近代になって我々人間は、より快適な生活、物質的な豊かさを追い求めるようになり、その結果、機械を使った大規模な環境破壊を生み出して仕舞いました。そのようなダイナミックな環境の変化は、長〜い長〜い時間を掛けて、自分自身の身体を変化させて来た動物達にとって大変危険な事なんです。
 例えば『森の住人』といわれるオラウータンは自分の身体を森に適応させて来ましたが、その森がなくなったら彼らは死を待つより他ないんです。蟻塚が無尽蔵(むじんぞう)にあって始めてアリクイは生きる事が出来る訳です。又他の動物達も同じで、生きる場としての環境があって、はじめて生きて行けるのです。もしそうでなければその種は死絶えて仕舞います。現に今日(こんにち)では一年間に約4〜5万種の生き物が絶滅しているという大変恐ろしい報告さえあります。人間以外の動物は皆、慎(つつ)ましやかに、与えられた生命を本当に一生懸命、真摯(しんし)に生きているのにです。
 『この掛けかえのない地球を人間に任せたのが間違いだったのではないか?』
とは、あるアメリカの下院議員の言葉です。楽しいか、楽しくないか?損か得か?というものさししか持ち合わせていない凡夫である我々人間が、この掛けがえのない宇宙船地球号の船長に本当にふさわしいのか?と思わざるを得ないのです。本当の『文化』とは『進化』とは、一体なんだろうか?と改めて考えさせられるのでした。



◆リモコン文化

 今日(こんにち)我々の生活は益々快適になり、豊かになっています。そんな中、我が家にもたくさんのリモコンがあります。テレビ、ビデオ、エァーコン等のリモコンはその場に居ながら、スイッチを入れたり、切ったり、音量を挙(あ)げたり、下(さ)げたり。チャンネルを変えたりという事が、遠隔操作で簡単に出来るんです。そのリモコン感覚が、テレビやビデオ等の電気製品にばかりでなく、人間に向けられますと、どうでしょうか?4〜5年前のテレビ・コマーシャルで、こんなのがありました。はっきりとは覚えていないのですが、チョッと太り気味の中年の女性が、ゴロンと横になって、せんべいか、なにかを食べながら一言(ひとこと)『父ちゃん元気で留守がいい』と言うのがありました。何か現代の文化を象徴しているような気が致します。
我々は自分に都合の悪い、面倒な、煩(わずら)わしい事は、リモコンで消したり、早送りをしたいんですね。私はこれをリモコン文化と呼んでいます。もしかしたら、これが人間の長い間培(つちか)って来た習(なら)い性、業(ごう)なのかもしれません。それを我々は文化だと思っているんです。



◆鉄砲と仏法

 自分を変えずに相手を変える事が、そして自分の好みに環境を変える事が、本物の文化といえるのでしょうか?
 北陸、福井県の医師で仏教者でもあった故米沢英雄先生が『鉄砲(てっぽう)は相手を打つが、仏法(ぷっほう)は自分自身の「我」(が)を打つんだ』と教えています。
 これは我々にとってとても恐ろしい言葉です。我々のような凡夫は怖くて自分の「我」を打つ引き金が引けないんです。それだったら、外に原因を求め、相手を打ったり責めたりした方が、自分が傷つかず、苦しむ事なくて楽なんですね。我々は、自分が不利な立場になったり、或いは苦境や逆境に立たされたりした時、自分の事を棚に挙げ「私がこうなったのは、こんなに惨(みじ)めな思いをしなければならないのは、あいつの所為(せい)だ、社会の所為(せい)だ」と、その原因を周りの、他人の所為(せい)にして仕舞います。
 川柳に『人を指(さ)す、指三本は、自分(おのれ)向き』というのがありました。人指(さ)しゆびを相手に向けて「あいつが悪いんだ」という、その人指(さ)しゆび以外の三本は自分に向いていると言うのです。一分(いちぶ)の非、原因は相手にあるかもしれません。しかし三分(さんぶ)の非、或いは、ほとんどの原因は自分にあるというのです。



◆本物の文化とは

 動物が何代も何代も、それこそ気の遠くなるような長い年月を掛けて自分の身体を自体形成変化させて来たように、我々も正々世々(しょうしょうせせ)、生まれ変わり、死に変わりして、自分中心の損か、得かという凡夫根性を、相手の、立場をも考えられる仏ごころに自体形成変化する必要がありそうです。
 12月8日はお釈迦さまがお悟りを開いた日であり、成道会(じょうどうえ)と呼ばれ、我々、仏教徒に取りまして、とても大切な日です。お釈迦さまは12月1日から7日の間、静かに自分を見つめる坐禅をなされ、その8日の明け方、明けの明星をご覧になってお悟りを開かれました。その時お釈迦さまは『奇(き)なる哉(かな)、奇(き)なる哉(かな)、我(われ)と大地有情(だいちうじょう)と同時成道(どうじじょうどう)』と、言われました。それは『なんて不思議な事だろうか!私の命は、大自然の、生きとし生けるあらゆる命と、つながっており、そしてそれらによって生かされている命だったんだ』という、お釈迦さまの、命に対する気付きの言葉でした。私のこの命も単独でポッンと寂しくあるのではなく、つながり合い、助け合って生きているということなのです。
 自分さえ良ければ、相手の事なんか、どうなっても構わないという、そんな浮足(うきあし)だったリモコン文化ではなく、相手の立場を思いやり、自分自身を、静かに見つめて生きる事が本物の文化ではないか。そんな生き方が、取りも直さずこれからの環境問題や人間関係を考える上で、最も大切な事のような気が致しております。ある古老が言っていました『実(み)のった柿は全部取るもんじゃない。幾つかは小鳥達の為に、そして幾つかは、恵んで呉れたこの大自然にお返しするのだよ』と、それは、現代を生きる我々にとり、とても大切な、そして尊い、有り難い教えとして頂いております。


雨やどり


 われわれは次のことを知っている。地球が人間に属しているのでは無く、人間が地球に属していることを。・・・人間が生命の入り組んだ関係を織ったのでは無い。人間はただその織物のより糸にすぎないのだ。人間がその織物に対してなすことはすべて、自らに対してなすことになる。


アメリカインディアンのシアトル首長から1855年にアメリカ合衆国
大統領に宛てた手紙の一節「将来世代に公正な地球環境を」から


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