平成10年7月1日号

 『おじいちゃんや、おばあちやん等のお年寄りと一緒に生活をしている子供達は、違うんですよ』と、それはある小学校の先生との会話の中から出て来た言葉でした。おじいちゃんや、おばあちゃんと一緒に生活している子供は、友達から親切にされたり、物を貸して貰(もら)ったりした時に、直ぐに『ありがとう』と言えたり。 或いはチョットした事でも『おかげさんで』と感謝する事が出来るというのです。我々、大人でも中々言えない言葉を、何気なく、それも気負わずに言えるというのです。
 何故か?と言えば、お年寄りと一緒に生活をしている子供達は、どんな時におじいちゃんや、おばあちゃんが『ありがとう』や『おかげさんで』という言葉を使うのか、実際に見たり、聴たりしているからだというのです。たとえば他人から親切にされて、嬉しかった時に『ありがとう』と言うんだな!と自分で感じ、学習して行くというのです。
 そして又物資の乏しかった戦争の時代を経験したお年寄りは、一般的に物を大切にし、粗末にしません。ですからまだ使えそうだったりすると『勿体ない』と言って中々捨てません。若い人が、うちの年寄りは、物が捨てられなくて本当に因っているんです。物を収納して置く場所が、どんどんなくなって仕舞って!と嘆かれます。しかし使い捨ての時代は終わり、今はリサイクルの時代です。物を大切にし粗末にしないという事はとても大切な事です。そのようなお年寄りの生き方を見て育った子供達は『勿体ないよ!』と自然に言えるようになり、又その子自身も物を大切に出来るようになるというのです。



◆日本語になった仏の教え

 かってオアシス運動というのがありました。それは『おかげさま』のオ『ありがとう』のア『失礼します』のシ『すみません』のスというそれぞれの頭文字を取ってオアシスと名付け、それらの言葉を皆でたくさん使って、明るい町を作ろうという運動でした。
 これらの言葉は、インドから、中国を経由して入って来た仏の難(むずか)しい教えを、昔のお坊さんが智慧を絞(しぼ)って、我々にもわかり易(やす)いように咀嚼(そしゃく)し、かみくだいて消化し、日本語として来たものです。ですから日本人の智慧の結晶と言えるものです。これらの言葉の意味を簡単に説明すると、

おかげさま-我々をかげで支えて呉れている人やものへの感謝の言葉。
ありがとう-法句経という経典の一節『人の生を受くるは難く、やがて死すべき今、イノチあるは有り難し』より取ったものです。有ること難しのこのイノチを、私は現に今頂いている訳であり、無条件 に『ありがとう』という事になります。
勿体ない(もったいない)-辞書には勿体は物体と同じ意味であるとあります。物体がないとは、転じて物を惜しむ事です。
いただきます(頂戴します)-『いただきます』も『頂戴します』も自分の頭の頂きに、てっペんに載せるという意味があります。ですから食事を頂きますという時には、私より食べ物の方を目上に置き、感謝する言葉となります。
御馳走さま(ごちそうさま)-私が今食べた食事は、食材を馬で走りまわって探し、私の為に作った食事だったんだという感謝の表現です。それは家庭の食事であっても、お金を払って食べる食堂の食事であっても全く同じ事です。
失礼しました-礼の旧字は『禮』と書きます。その『禮』の字を分解すれば、相手に対して自分の『心の豊かさを示す』となります。ですからその心の豊かさを、余裕を示す事が出来ませんでした。礼を失(しっ)して仕舞い、申し訳ありませんでしたという意味の言葉です。

 今思いつくままに書き出して見ましたが、その他に今ではすっかり死語になって仕舞った『ののさんが見ている(ののさんとは、仏さまに対する幼児言葉)』等があります。理屈(りくつ)や理論に合わない言葉や、人間の頭で考え、証明が出来ないものは徐々にその存在感を失って仕舞ったようです。



◆スイカ泥棒

 子供の頃読んだ仏教童話に、ある貧しい父と子供の物語がありました。
 ある月夜の晩の事、もう何日も食べ物らしき物を食べていなかった父と子の親子が、他人のスイカ畑に入って、そっとスイカを盗もうとしたのでした。なにしろもう何日もろくな食べ物を食べていません。父親にしてみれば、大人である自分は、まだ何とか我慢が出来るが、小さな我が子の事を思うと不憫(ふびん)でなりませんでした。そこで父親はやむにやまれずスイカをこの子供に腹一杯食べさせてやろうと思い、誰も見ていないのを見計らって他人のスイカ畑に入って、スイカを盗もうとしたのでした。小さな我が子を見張り番に立たせ、父親はスイカ畑に人って、美味(おい)しく、熟(う)れた甘いスイカをもぎとろうとした時、用心の為、我が子に『オ〜イ!誰も見ていないか?』と尋ねたのでした。すると子供は『うん!誰も見ていないよ、でもお父さん!お月さまが見ていなさるよ』と、答えたのでした。誰も見ていなければ、スイカを盗んでもわかるまいと思っていた父親は、我が子に『誰も見ていないけれども、お月さまが見ていなさる』と言われ、愕然(がくぜん)とし、もうスイカがもぎれなくなって仕舞ったのでした。



◆道徳と宗教の違い

 この物語の父親にかぎらず我々も、本当にひもじい時、誰も見ていなければ、スイカを盗すもうとするかもしれません。しかしこの父親は、誰かに見つかりそうになったので、スイカを盗む事を諦(あきら)めた訳ではありません。もし誰かが見ているので、スイカを盗む事を諦めたのならば、いつか又誰にも見つからないところで、スイカを盗んで仕舞うでしょう。しかしこの父親は『お月きまが見ていなさる』という我が子の一言によって、二度と盗む事が出来なくなって仕舞ったのでした。世間の誰かが見ているとか、見ていないとかには全く関係なく、どんな時でもお月さまが、ののさまが見ている事を教えられたのでした。ここで言うお月さまや、ののさまとは一般的に言われている『まごころ』とでも、或いは『御先祖さま』とでも、或いは『ほとけごころ・宗教心とでもいうのでしょうか?色々な呼び方が出来るかと思いますが、どちらにしろこの父親は自分自身の仏性に気付かされたのでした。
 自分と他人とのかかわり合いによって、成り立つ道徳や、或いは他人の目を気にした世間体だけでは、現代を生きる人々の行動を律する事や、歯止めを掛ける事が、既に出来なくなって仕舞いました。何故ならば、現在では誰か他人が見ていても、或いは世間に何と言われようとも、お月さまが、ののさんが見ていなければ、つまり自分自身の仏性に気が付かなければどんな事でもして仕舞うんです。
 逆に誰が見ていようとも、見ていなくとも、この父親のように、お月さまが、ののさんが見ていさえすれば、良い事はし、悪い事はしないという、真実の世界に目覚めて行く事が出来るのでした。是非、現代に於いては全くの死語になって仕舞った『ののさんが見ている』を皆さんの手によって復活させて頂きたいと思います。
 ところで私は、この親子がその後どうなったのか、全く覚えていないのです。ただ自分自身の仏性に気付かれたお父さんの事です、そのひもじさから何とか上手(じょうず)に抜け出せたんだろう!と思っています。



◆漢方薬

  我々の生き方に業生生死(ごっしょうしょうじ)と願生生死(がんしようしょうじ)という二つがあります。業生生死というのはおのれの業にまかせた生き方で、 仕方なくこの世に生まれ、そして死んで行く事であります。それに対してもう一つの願生生死とは願いを持って、この苦しみの世をすすんで生きる事であり、それは我々仏教徒の理想である菩薩としての生き方であります。ですからこの苦しみの世界を「願い」をもって生きるのか?ただ惰性(だせい)にまかせ、業の延長で闇雲(やみくも)に生きて行くのか、同じ世界でありながら、生き方によって180度違ってまいります。
 我が道元禅師は、こんな我々に対して、『願生此娑婆(がんしょうししゃば)国土し来れり』誰でもが願いを持ってこの世に生まれて来たのだよと教えるのでした。『私なんか、もう年を取り過ぎて仕舞って「願い」なんか持てないよ!』なんて弱音を吐(は)かないで下さいね。おじいちゃんや、おばあちゃんと一緒に生活をしている子供達はどこか違うと、小学校の先生も言っているんですから、長い時間かゝって日本語化した仏の教えを、いっぱい使って頂き、決して死語にせず、孫や曾孫(ひまご)達に伝えて行って欲しいと思います。そしてこれはとても大切な、立派なつとめであり「願い」を持った生き方なんですから。



◆仏は良薬なるがゆゑに帰依す

 仏の教えは、我々の心を整える薬であると言います。それは現代医学のように即効性(そっこうせい)のある薬ではないかもしれません。どちらかと言えば漢方薬のように、毎日少しづつ煎じて服用することによって徐々に効いて来るようです。同じ様に子供たちは、おじいちゃんや、おばあちゃんの使う、そんな言葉の薬を毎日毎日聞く事によって、知らず知らずのうちに心の奥底(おくそこ)に浸み込ませ、いつの問にかその子自身のものになって行くのでした。
 ところでかくいう我が家は、私と家内と子供三人の典型的な核家族、子供達の口からあまりありがとう・おかげさん・勿体ない等と、聞いた事がありません。私なりに使っていたつもりなのでずが、おじいちゃんや、おばあちやんのいる家庭ほどは、使っていなかったのかもしれません。これからは我が家でもたくさん使うように心掛けて行きたいと思います。

 長昌寺参禅会主催による、親子ふれあい参禅会を行なっております。その中に『仏教童話』を読むコーナーもありますので、興味のある人は
『親子ふれあい参禅会』をご覧下さい。

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◆あとがき◆

◎今年(平成10年)も暑い夏がやって来ました『暑き日には、暑さにまかせて 昼寝な』正岡子規の句であったでしょうか?しかし我々は自分をまかせて生きる事が中々出来ません。何事でもまかせられヽば本当に楽になれるのでしょうが。どうぞご自愛下さい。




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