平成11年2月20日号

 2月の15日は仏教をお開きになったお釈迦さまがお亡(な)くなりになったお涅槃(ねはん)の日です。この長昌寺でも、2月1日より15日まで、本堂の東の間に、お涅槃図(ねはんず)をお飾りし、報恩感謝(ほうおんかんしゃ)のご供養をさせて頂きました。

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◆お釈迦さま最後の旅

 『アーナンダよ。わたしはもう老い朽(く)ち、老衰(ろうすい)し、人生の旅路(たびじ)を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢(よわい)は80となった。たとえば古ぼけた車が皮紐(かわひも)の助けによってやっと動いていくように、恐らくわたしの身体も皮紐(かわひも)の助けによってやっともっているのだ』と、お釈迦さまはいつも付き従っていたアーナンダに言われるのでした。
 そのように80歳になられ、死期を感じられたお釈迦さまは、生まれ故郷であるカピラヴァットゥに帰る事を望まれ、アーナンダ等、極少ないお弟子さんを連れ、最後の布教の旅に出られたのでした。その途次、チュンダという信者による茸料理のご供養を受けられ、その料理が原因であったのか、激しい下痢をされ、益々身体が衰弱して仕舞ったのでした。それでも少しづつ歩まれ最後の旅は続けられ、とうとうクシナガラの地において、静かにお亡くなりになったのでした。これらのご様子は大パリニッパーナ経という教典に詳しく書かれております。
 お釈迦さまがお亡くなりになった時のご様子を絵にしたのが、お涅槃図です。真ん中に描かれた沙羅双樹(さらそうじゅ)の間には、今しがた、息を引き取られたお釈迦さまが、頭を北にし、静かに横になっておられます。そのお顔は残された我々に、どことなく微笑みかけているように感じられます。その枕辺(まくらべ)にはアーナンダを始め、お釈迦さまの死を知らせれ、各地から駆けつけたたくさんのお弟子さんや、一般の信者、国王、大臣、そして老若男女、あらゆる職業の人達が、又インド土着の神々も集まり、嘆(なげ)き悲しんでいる様子が表情豊かに描かれております。



◆おだやかな死

 そこには人間ばかりでなく、たくさんの動物達も集まりお釈迦さまの死を嘆いています。真偽の程はわかりませんが、お釈迦さまの死を知らされ、駆けつけた順番が、鼠(ね)、牛(うし)、虎(とら)、兎(う)、龍(たつ)、巳(み)〜という十二支(し)のエトになったと言い伝えられています。
 又お釈迦さまの亡骸を囲むように生(は)えていた沙羅双樹8本のうち右半分の4本は、悲しみのあまり紅葉し枯れて仕舞ったので白く描かれています。人間や、動物ばかりではなく、心を持たないとされる植物でさえも、お釈迦さまの死を嘆き悲しんでいるのでした。現在のお葬式にもその故事は伝え残されております。お葬式の行列の時に遺族が手に持つ紙花、手花(てばな)がそれです。これは枯れた沙羅双樹の枝(えだ)を表現したものだと言われています。
『涅槃の図 みな泣いていて 温(あたた)かし』これは縁者の野村静子さんから寄せられた俳句です。お涅槃図に描かれているすべてが、人間ばかりでなく、動物や、植物までもが嘆き悲しんでおり、見るものの心を温(あたた)かくして呉れるというのです。
  それにしてもお釈迦さまのお顔はなんて穏(おだ)やかなのでしょうか。聖人と言われた人々の多くが迫害(はくがい)や、牢獄(ろうごく)の中で、その最期を迎えたのと違い。お釈迦さまのお涅槃は、どうしてこんなにも穏やかであり、安らいでいるのか?皆さん不思議にお思いになりませんか?



◆納得(なっとく)の人生

 原始仏典によると、お釈迦さまは降魔成道(ごうまじょうどう)と言って悪魔(あくま)との戦いに勝利し、お悟りを開かれたと伝えられております。ここで言う悪魔とは、お釈迦さまの心の内に芽生(めば)える煩悩(ぼんのう)であり、又我々が真実の生き方をする時のさまたげになる過大(かだい)な欲望(よくぼう)や、我執(がしゅう)等であります。お釈迦さまは、それらの悪魔のささやきに勝利する事により、お悟りを開かれたのでした。ですからお釈迦さまは最期の教えである仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)の中で『汝が心を折伏すべし』と、つまり他人ではないお前自身の煩悩の心を折伏(しゃくぶく)しなさいと、残された我々に教えるのでした。
  ところがお釈迦きまが内なる煩悩や欲望の悪魔との戦いに勝利したのと違い、我々の人生は、内なる煩悩や欲望をどんどん拡大増長させて、外なる他人と比較競争し、勝利する事に最高の幸福があると錯覚しているようです。ですから他人と比較し、相対的な勝ち負けの世界に生きている我々にとって、何となくお釈迦さまの御生涯は、物足りなく感じらて仕舞いますね。しかし本当は、他との比較の世界に身を置くかぎり、我々は一時も心の安まる時がありません。ですから我々は直ぐに『隣(となり)の家で大きな蔵(くら)を建てれば、我が家では腹が立っ』て仕舞うのでした。
『自分で自分をほめてあげたい』これはある女性マラソン選手が言った言葉です。そこには 『他人と競う事よりも自分の内なるものとの戦いに勝利したんだ』という自負心があったのだろうと想像するのでした。その時の彼女の顔には、どこか満ち足りた、安らかな表情があったのでした。
 仏教では『涅槃(ねはん)は寂静(じゃくじょう)』と教えます。それはおのれ自身の煩悩の火を消し、滅(めっ)し去ったものの人生は、静かで、穏やかであるというのです。我々も『だれにほめられなくても、自分で自分をほめてあげられる』そんな納得の人生を送りたいものですね。



◆あとがき◆

◎昨年暮れの事でした。我が家の子供達が『何故(どうして)僕の家ではクリスマスパーティーをやらないの?お友達の家では皆ケーキを食べて、楽しいパーティーをやるんだよ、どうして僕の家だけは、クリスマスがないの?』と催促(さいそく)します。クリスマスはキリスト教の宗教行事であり、キリスト様が生まれる 聖夜であり、仏教の行事ではないんだと言っても、我が家の小さな子供たちには中々理解出来ず、ただ美味しいケーキを食べ、サンタクロースにおねだりすれば、プレゼントを持って来てくれるものと思ってるようです。そんな折、知り合いの日本基督(キリスト)教団の牧師さんの奥さんに『今夜、クリスマスのパーティーがありますが、良かったらどうぞ!』と誘われ『渡りに舟』とばかりに、家族全員で教会のクリスマスパーティーに参加したのでした。我が子供達は、厳粛(げんしゅく)な聖書の祈りの中で、手作りの料理や、ケーキを食べたり、讃美歌を歌ったりと、大変心を撃(う)たれたようです。クリスマスは決して、おもしろ可笑(おか)しく過ごす事ではなく、そこには宗教的な心や、厳(おごそ)かな祈りがあるのだと、私共々、勉強させて頂きました。本当にありがとうございました。

『長昌寺より紙のご祈祷札(ふだ)を頂いたが、どのように飾ったら良いのか?』というお尋ねが幾つかありました。私が今まで見て来て、一番良いなと思ったのは、御札の大きさに切った厚いボール紙に、御札を糊や出来たらご飯粒で貼り付け、お仏壇の中に立て掛ける方法です。これですと、御札をそのまま立て掛けるのと違い、風等によってローソクの火や線香の火で燃え付く心配がありません。お試しになって下さい。




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