平成11年5月15日号
 4月の掲示版に、俳諧寺一茶翁の
『死の準備 急げ急げと 桜散り』
という俳句を掲載致しました。散り行く桜は、あたかも我々に『死の準備をチャンとして置きなさいよ』と教えているようだというのです。
『死ぬまでにやっておくべき事』等という本も出版されています。そして遺言や、遺産相続等法律的な問題や、自分の入るお墓や、ご葬儀等の心配事を解決しておく事は勿論とても大切な事だと思います。
 「とちぎホスピス運動をすすめる会」発行の「死ぬまで生きる」という本があります。それは「がん」患者の声、家族、兄弟、友人の看取り、そして医療とボランティアにたずさわる人々の思いを綴ったものです。
 そのあとがきに『「死ぬまで生きる」という事は、決して、時間の長さではなく、死ぬまで生きること、つまりQOL(クオリティ・オブ・ライフ)生命の質の問題なのではないでしょうか』とあり、そして『悔いなく生きるためには、一番好きなものを見つける。自分にとって一番好きなものが何なのかを、確認しておく事が重要だ』というのです。


◆たとえ明日世界が終わろうとも
 キリスト教の聖フランシスコが言ったのか?或いは宗教改革を行ったドイツ人のルターが言った言葉だったのか、わかりませんが、彼が教会の土地にリンゴの苗木を植えていた時、通りかかった人に『もし明日この世が終わろうとしたならば、あなたはまず一番に何をなされますか?』と尋ねられました。
 この地球が明日、彗星の衝突か、核爆弾の誤作動か、或いはキリスト教で言うハルマゲドンによるものなのかはわかりませんが、何らかの理由でこの世が終わろうとしたら『あなたはこの残されたたった今をどのようにお過ごしになられますか?』と尋ねられたのでした。
すると彼は『たとえこの世が明日終わろうとも、私はリンゴの樹を植える』と答えられたのでした。
 もし同じ事を我々が尋ねられたら何と答えられるでしょうか?やり残して来た事ばかり多く何が一番大切な事なのかも、又何をやって置くべき事なのかもわかりません。彼のようにリンゴの樹を植えるという今の務めを黙々とやり続ける事など、とても出来そうにありません。なぜ彼は『リンゴの樹を植える』と答える事が出来たのでしょうか?
 この世の終りとは、逆に言えば私自身への死の宣告という事でもあります。誰でもがこの世に生まれた以上死の宣告を受けている訳であり、未だかって生き残った人もいないのです。越後の良寛さんが発句で『散る桜 残る桜も 散る桜』と詠まれたように、遅かれ、早かれ我々には必ずこの世の終りが訪れるのでした。
 松尾芭蕉翁は『今日の発句は明日の辞世』と言っています。今日読んだこの俳句が明日の辞世の句となるんだという覚悟を持って彼もこの人生を歩んで来たのでした。


◆摩訶の世界
 昔あれほどいた在来種のメダカが水の汚染等によっていつの間にか居なくなって仕舞いました。子供の頃私は金魚鉢にそのメダカを飼っていた事があります。メダカはチッチャな金魚鉢の中をスイスイと気持良さそうに泳いでいました。メダカにとって金魚鉢の中は自分の生きる世界のすべてだったのです。
 それに対して鯨はあの太平洋をやはり悠々と泳いでいます。我々傍観者が、人間のものさしで見れば大きな太平洋とチッチャな金魚鉢は見るからに大きさに差があります。しかし泳ぐ本人、メダカは鯨の泳ぐ太平洋を羨む事もなく、金魚鉢の中を気持ち良さそうにスイスイと泳ぎ、又鯨は鯨で悠々と太平洋を泳いでいるのでした。
 小さなメダカはメダカとして完全無欠のイノチを生き、鯨は鯨で完全無欠なイノチを生きており、それぞれが比較を絶した世界を生きているのでした。その比較を絶した世界の事を、仏教では『摩訶』といいます。それはインド語で比較を絶した程に『大きな、偉大な、勝れた』等という意味の『マハー(maha)』の音訳で、良く御存知の摩訶般若波羅蜜多心経の『摩訶』等がそれです。
 現在の日本人は、平均寿命が八十歳という、男女とも世界で一番の長寿国になりました。それでも中には長生きの人もいれば、短命な人もいます。しかしメダカや鯨がそれぞれ比較の出来ない世界を生きているように、我々も又、誰とも比較の出来ない生命を生きているのです。何故なら、自分の生命は誰も代わって貰えず自分自身で生きるしかないのですから。『摩訶』とは、そんな生命が長いとか短いとか、或いは生きる世界が広いとか狭いとか人間のものさしではかる比較の世界の事ではなく、完全無欠な我々の生命の質や、深さを言うのでした。そして今さかんに話題になり、言われているQOLとは、今までの傍観者としての人間のものさしから、自分自身の生命の質や、深さへの方向転換だったのかもしれません。


◆一日の行持を行取せば
 芭蕉翁が『今日の発句は明日の辞世』という思いで俳句を詠まれたように!そしてリンゴの樹を植えて一日をいとおしむように!生きられたらさぞ、素晴らしい事でしょうね。道元禅師様も『徒(いたず)らに 過ごす月日は 多けれど 道をもとむる 時ぞすくなき』と、今までの生活を振り返ってみると、いたずらに年月を重ね、真実の道を求める事が少なかったというのです。
 しかし『設(たと)ひ百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬぴ)と馳走すともその中、一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり』と、たった一日でも自覚のある正しい生活が出来たなら、徒らに過ごした歳月も償われ、百年の生命を生きた事にもなり、又そればかりではなく、我々の死後の生命をも救う事も出来るのだと我々に教えるのでした。



◆あとがき◆
▼(平成11年)4月18日(日)雨天の中、檀家、総代、役員、工事関係者の出席のもと鐘楼堂落慶式を無事に済ませる事が出来ました。この日は朝から慌ただしく、その合間に少し伸びた髪の毛を剃っていたら、剃刀(カミソリ)で耳を少し切って仕舞いました。あれもこれもと気が散漫になっていたのか、たった一つの事にも集中出来なくなっていたようです。
 昔ある修行僧がお師匠様に『百千万境一時に来たらん時、いかがすべきか?』と尋ねました。つまり18日の私のように、ご法事があったり、マイクのテストをしておかなければならなかったり、ご開山様の墓前へ落慶の挨拶があったり、護持会総会があったり、落慶法要があったり、その後の祝宴があったり、その前に剃髪もしておかなければならなかったり、下の子供との約束も果たさなければならなかったりと、百千万境とまで行かなくても、一日で色々な事をやらなければならい時はいかがすべきでしょうか?という程の意味です。
 それに対してお師匠様は『他を管すること莫かれ』『青は是れ黄ならず、長は短ならず』と言われるのでした。その意味は我々が、今出来る事はたった一つの事だけである。だから今やっている事以外の事に心を乱すなというのです。剃髪の時は剃髪だけ、ご法事の時はご法事だけ、一つ一つの事に集中して対応しなさいと言うのです。青は決して是れ黄色ではなく、剃髪をしている時には余所見をせず剃髪をする。それが大切だという事です。耳を切ったお陰で少し教えて頂きました。

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