平成12年1月15日号
 今回『除夜の鐘』を撞きに100人以上の方がお参りされました。護持会で準備していたお菓子が足りなくなる等嬉しい悲鳴。引き続いて本堂で行われた新春祈願法要にも、大勢の人が参列され、新しい年のご祈願をされました。皆さんには、今年だけでなく、是非大晦日の恒例にして頂きたいと思います。


◆雲門文偃禅師の教え
 達磨さんによってインドから中国へと伝えられた仏法は、唐から宋の時代にかけて、五家と呼ばれる五つの特色ある教えとなって大きく花が開きました。五家とは我が曹洞宗や、臨済宗、日本には伝えられなかった為仰宗、法眼宗、雲門宗の5つの門流の事です。道元禅師が『五家はことなれども、ただ一佛心印なり』[正法眼蔵、辧道話]と述べられているように、五家の違いは、指導者の弟子に対する教え導き方の違いであって宗旨の相違ではありません。
 今回はその五家の一つである雲門宗の基になった雲門文偃禅師の教えについてお話しさせて頂きます。 雲門禅師は弟子を指導するのに、簡潔な一字をもって、仏法の真実を言い表わす事が多かったので、当時の人々は雲門宗の特色を『雲門の一字関』と呼ぶようになりました。葬儀の導師が、引導の時に拂子を振って大きな声で『ロッー(露)』とか『カァーッ(喝)』と言ったりするのを皆さんも聞いた事があるかと思います。あれが『雲門の一字関』と言われるものです。どうしても言葉で表現する事の出来ない仏法の真理を『露』(ろー)とか『喝』(かつ)『咄』(とつ)『忸』(いい)『繁』(かー)等の一字でもって提示しようとしたものです。ですから導師が引導で大きな声で『露』とか『喝』と言うのは、べつに故人に気合を入れている訳ではないのです。そもそも葬儀の引導は、導師が故人に対し問い掛けをし、故人がそれに答えるという問答の形式になっているのです。


◆日々是好日
 その雲門禅師が毎月15日に行われる半月小参のご説法で、本堂に集められた大勢のお弟子さん達を前に、次のようなお話しをされました。
『今までの事はもう過ぎ去って仕舞った事だから、お前達には聞かないが、今から後の事を一つ言ってみろ!(十五日已前は、汝に問はず、十五日已後、一句を道ひ将ち来たれ)』とつまり去年の事はもう聞かないから、今年の抱負を一つ言ってみなさいとでも言う事なのでしょうか。しかしその質問に答えられる弟子が誰もいないので、雲門禅師が自ら代わって日々是好日とお答えになりました。これは一字関ではありませんが、短く日々是好日と言っただけでした。日々だから今日一日だけではなく一年365日、来る日も来る日も好い日だというのです。
 確かに一年のうち一日ぐらいは、幸せだなぁ!と思える日があるかもしれません。しかしお天気も晴れの日ばかりではなく、雨や雪の日、そして赤城おろしの強く吹く寒い日があるように、我々の一生の間には悔しくて、ひとり涙を流す日もあれば、老いや病いで入院しなければならない事、愛する人と別れなければならない悲しい日等、幸せな日々だけでは決してありません。それでも雲門禅師は『日々是好日』毎日が好い日だと言うのです。いったい雲門禅師は我々に何を教えようとしたのでしょうか?


◆晴れてよし、曇りてもよし、富士の山
 我々は逆境等に立たされると、過ぎ去った日々を懐かしみ、中々素直に現実を受け入れる事が出来ません。或いは逆に過去の失敗を何時までも引きずり、今ここでしなければならない事を怠って仕舞います。勿論過去に学び、今に活かして行く事はとても重要な事ですが、何時までも過去に執着し、今を疎かにする訳にはまいりません。何故なら我々は今・ここを起点とした時空に生きるしかないからです。そこで考えてみても仕方がない事を雲門禅師は『十五日已前は、汝に問はず』と言われるのでした。
 過去の事、毎日の『空もよう』等、この世には、我々にどうする事も出来ない事がいっぱいあります。

 勿論我々の『心もよう』も同じで、雨の日は憂鬱で、晴れの日は心まで晴れやかになります。そして人にバカにされヽば頭に血が上り、病の時は辛く、愛する人と別れる時は悲しくもなります。これを我が恩師は『2×2=4(ニニガシ)等の数学の公式と同じ様に、これは決まり事で、我々がどんなに修行しても、この感情を押さえ込んだり、変えたりする事が出来ないんだ』と良く教えられました。そのどうにもならない事に何時までもこだわり続ける事は、あたかも池に投げ込まれた小石の波紋を鎮めようと、再び小石を投げ入れ、波紋を益々拡大増幅し、二重に三重に苦しんで仕舞うようにも思えるのです。
 お正月になると、良く床の間に、縁起物の富士山の掛軸を見掛けます。夕陽に赤く染まった赤富士や、日の出の富士や頂上に雲や、白い雪を戴いた富士等色々ありますが、どの富士山も見る人の心を強く引きつけます。富士山の麓で働く農夫に、あるテレビ局のリポーターが『あなたは春夏秋冬のどの富士山が好きですか?』と訪ねました。するとその農夫は『春は春の、夏は夏の、秋は秋の、冬は冬、四季それぞれの富士山が好きだ』と答えたのでした。何だか我々にもわかるような気が致しますね。
 幕末から明治期に活躍した剣術家の山岡鐵舟居士は
『晴れてよし、曇りてもよし、富士の山、元の姿は、変わらざりけり』と詠み、同じ様に雲門禅師は『日々是好日』と言われるのでした。
 春夏秋冬それぞれに変化して行く富士山の風景を慈しみながら暮らす農夫のように、喜怒哀楽と変化して止まない我が『心もよう』を一幅の心象の風景として眺め、あまりそれに振り回されないように、私もこの一年を過ごしたいと思います。

雨やどり
  元服   
 ぼくは、今年3月、担任の先生からすすめられてA君と二人で○○高校を受験した。○○高校は私立であるが、全国の優等生が集まってきているいわゆる有名高校である。担任の先生から、君たち二人なら絶対大丈夫だと思うと強くすすめられたのである。ぼくらは得意であった。父母も喜んでくれた。先生や父母の期待を裏切ってはならないと、ぼくは猛烈に勉強した。
 ところがその入試で、A君は期待通りパスしたが、ぼくは落ちてしまった。得意の絶頂から奈落の底へ落ちてしまったのだ。何回かの実力テストでは、いつもぼくが一番でA君がそれに続いていた。それだのに、そのぼくが落ちてA君が通ったのだ。
 誰の顔も見たくないみじめな思い。父母が、部屋にとじこもっているぼくのために、ぼくの好きなものを運んでくれても、優しいことばをかけてくれても、それが、よけいにしゃくにさわった。
 何もかもたたきこわし、ひきちぎってやりたい怒りに燃えながら、ふとんの上に横たわっているとき、母がはいってきた。『Aさんがきてくださったよ』という。ぼくは言った。
『かあさん、ぼくは誰の顔もみたくないんだ。特に、世界中で一番見たくない顔があるんだ。世界で一番いやな憎い顔があるんた。だれの顔か、言わなくたってわかっているだろう。帰ってもらっておくれ』母は言った。『せっかく、わざわざ来て下さっているのに、かあさんにはそんなこと言えないよ。あんたたちの友だちの関係って、そんな薄情なものなの。ちょっとまちがえれば、敵味方になってしまうようなうすっぺらいものなの。母さんにはAさんを追い返すなんてできないよ、いやならいやでソッポを向いていなさいよ。そしたら帰られるだろうから』と言っておいて母は出ていった。
 入試に落ちたこのみじめさを、ぼくを追い越したことのない者に見下される。こんな屈辱ってあるだろうかと思うと、ぼくは気が狂いそうだった。
 二階に上がってくる足音が聞こえる。ふとんをかぶってねているこんなみじめな姿なんか見せられるか。胸を張って見すえてやろうと思ってぼくは起き上がった。
 戸があいた。中学の3年間、A君がいつも着ていたくたびれた服のA君、涙をいっぱいためたくしゃくしゃの顔のA君。『××君、ぼくだけが通ってしまって、ごめんね』 やっとそれだけ言って、両手で顔を覆い、かけおりるようにして階段を下りていった。
 ぼくは、はずかしさでいっぱいになってしまった。思いあがっていたぼく。いつも、A君になんか負けないぞ、A君を見下していたぼく。このぼくが合格してA君が落ちたとして、ぼくは、A君をたずねて『ぼくだけが通ってしまって、ごめんね』と、泣いて慰めにいっただろうか。『ざまあみろ』と、よけい思いあがったにちがいない自分に気がつくと、こんなぼくなんか、落ちるのが当然だ、と気がついた。彼とは、人間のできが違うと気がついた。通っていたら、どんなにおそろしい、ひとりよがりの思いあがった人間になってしまったことだろう。落ちるのが当然だった。落ちてよかった。ほんとうの人間にするために、天がぼくを落としてくれたんだ、と思うと、かなしいけれども、このかなしみを大切に出直そうと、決意みたいなものが湧いてくるのを感じた。
 ぼくは、今まで、思うようになることだけが幸福だとかんがえてきたが、A君のおかげで、思うようにならないことの方が、人生にとって、もっと大事なことなんだということを知った。
 昔の人は15才で元服したという。ぼくも入試に落ちたおかげで、元服できた気がする。
米沢英雄著『信とは何か』(柏樹社)より


◆あとがき◆
▼あらゆる所にコンピューターが入り込んでいる現代社会では、Y2Kコンピューターの2000年問題によって停電になったり、水道の供給が停止されたり、銀行のオンラインシステムや電車、飛行機等の交通網も乱れ、少なからず社会混乱が起きるだろうと予測されました。政府も総理自らがテレビに出て国民に2〜3日分の食糧の備えをするように訴えたりしたのですが、予想していた混乱も起こらず、杞憂におわり、ホッとしたと同時に、現代の我々には、コンピューターなしには生活出来ない事も今回の事件を通して教えられました。

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