『松龍』(蜜蔵院の寺報)28号
 以下の文章は、永平寺を送行(修行を終えて下山する事)して10数年後、かっての師寮寺、蜜蔵院の檀家さんを引率し永平寺へ参拝した記念に、修行時代の事なども書き添え『松龍』(蜜蔵院の寺報)に掲載したものです。


◆家族に見送られて
 永平寺の夕暮れは、予想に反して、暖かで、老杉の並木は、俗なるものを一切寄せ付けぬとばかりの威厳を保って、昔と少しも変わらず、今でもそこに立っていました。
 思えば昭和51年の春3月2日、大学を卒業したばかりの私は、東武伊勢崎線の足利駅のホームで、見送りに来て呉れた両親や姉や兄の『身体に気を付けて頑張るんだぞ』『辛かったらいつでも帰って来ていいんだぞ』等という言葉を背に受けて、福井県にある曹洞宗の大本山永平寺へ、修行に旅立ったのでした。
 体力に少し自信があ?私は『何ッ!永平寺の修行といってもたかが知れている』とタカをくくり、頭にはあじろ笠、手には真っ白な手っ甲、足にも白い脚絆を巻き、いっぱしの修行者きどり、小学校から大学までの詰め込み教育を受け、アタマでっかちで本当の事など何も知らないニワカ雲水が、それこそ颯爽(さっそう)として、足利の地を後にしたのでした。


◆永平寺での修行
 翌朝、今は亡き、長谷川徳治じいさんに編んでもらったワラジに履き替え、その時初めて登った雪の永平寺の老杉の並木道に私は立っていました。
 その杉はあまりにも大きく、まるで私にのしかかって来る様です。その頃には足も身体も真底から冷え込み、手の感覚は徐々に失われて行ったのでした。
 そこでの修行は、今まで培ってきた人生観、価値観が覆(くつがえ)されるのに余りあるものがありました。永平寺へ登って一週間は、旦過寮(たんがりょう)と言って、朝3時半の起床から、夜9時まで、ズッ〜と坐禪ばかりの生活、寒さと足の痛さと、ひもじさとの戦い。
 坐禪をしていると『こんな所に来るんじゃなかった。こんなハズじゃなかった』『私は寺の生まれとはいえ次男なのだから、寺を嗣(つ)ぐ必要もなかったし、ましてやこんな永平寺なんかで修行する必然性などどこにもなかったのに』『大学を卒業して、そのままどこかに就職すれば良かった』等、愚痴(ぐち)ともつかない思いが、次から次へと私の頭の中を駆け旋るのでした。


◆帰れる故郷
 そんな時、足利の駅で見送って呉れた、親の一言『辛かったら、いつでも帰って来ていいんだ』という言葉がフッーと思い出されたのでした。
 そして『永平寺での修行は辛くて、とても私にはつとまりません等と言って、私が帰れば、どんなに師匠を心配させ、家族を悲しませる事になるか。どうしてノコノコと家に帰れるというのだ?ましてやこれは誰の問題でもなく、私自身が選び、飛び込んだ道だったのだ』と気付かされたのでした。
『飛び込んだ、力で浮ぶ、カエルかな』という俳句もありますが、不思議な事にその時『何ッ!負けてなるか!』と逆に元気が出て来たのでした。
 思えば、足利駅で見送ってくれた親の『辛かったら、いつでも帰って来ていいんだ』という一言に支えられた私の永平寺での修行でした。
 我々にとって楽しい旅行が出来るのは、帰れる家、帰れる故郷があればこそ、そして待っていて呉れる人が居ればこそです。そんな留守を守って居てくれた人達へ、どっさりとおみやげを買い込み、我々の乗ったバスは一路菩提寺のある足利へと帰って来たのでした。

雨やどり
−−『次郎物語』の作者である下村湖人の
『青年の思索のために-心窓去来』より−−
  • 地球の引力にさからって草木はその枝葉を上に伸ばす。それは光を求めんがためである。地球の闇をくぐって、草木はその根を下に伸ばす。それは光を求める力を養わんがためである。

  • 美しいものにあこがれるのはいい。しかしわれわれの人生は、太陽に背を向けて、はかない虹の美しさに見とれるようなものであってはならない。

  • 他人の邪悪から自分を守る事は時として不可能な場合がある。しかし自分の邪悪から自分を守る事は全くの自由である。然るに大抵の人は、他人の邪悪によってよりも、自分の邪悪によってはるかに多くの害を受けている。これほど不合理な事はないが、又これほど普通の事もない。そしてその点で人間はどんな動物よりも不合理な存在であるらしい。

  • 周囲の人たちに自分の存在が無視された場合、平気で居れる人間の種類に両極がある。その一つの極は自分自ら自分を無視している人間であり、もう一つの極は自他を超越して自分を確立している人間である。同様の場合に平気で居れない人間の種類にも又両極がある。その一つの極は不満のために自分を忘れてしまう人間であり、もう一つの極は謙虚に自分を省みて他人の悪を思わない人間である。

  • へりくだるまねをする事は、さほど難しい事ではない。それは傲慢なままでも出来る事だからである。人間にとって真に難しいのは傲慢な心に打ち克つ事であり、へりくだろうと意識する事なしにへりくだる事である。

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