『非日常から日常へ』
 今年5歳になる息子が、泥の一杯詰まった長靴の形をした可愛らしい花鉢を、幼稚園から持って帰って来ました。そして毎朝、その花鉢の前にしゃがみ、長い間覗き込んでから、送迎バスで登園するのが日課となりました。ところが3日前の朝、大きな声で『お父さん、お父さん、白い芽が出て来たよ。』と言って、私を呼びに来ました。行って見ると、花鉢の真中に、大きな白いクロッカスの芽がしっかりと出ているではありませんか。この児は、一見何の変哲もないクロッカスの花の芽に素直に驚き、感動しているのでした。私がすっかり忘れてしまっていた「小さなコトに対する感動」を私に改めて教えて呉れた、清々しい朝でした。本当は最も大切な、そして身近な日常生活の中で感じられるものを、何故私達は忘れてしまったのでしょうか。
 今日、テレビや雑誌等のマスメデイヤを通して過剰な情報が、一方的に流され、町には非日常的なアブノ−マルな刺激が氾濫しています。考えて見れば、現代社会がそのような形で歩み、私自身も又非日常的な精神的な刺激を求めて、情報の中に埋没していたのでした。そして何時しか、その中に居る事が当然となり、私の感覚はすっかり麻痺し、強刺激でなければ反応しない無関心、無感動な傍観者的な人間に成っていたのかもしれません。私はよくお袈裟を縫います、暇な時を見付けて2〜3mm巾の返し針で縫うので、仕上がるまで一年以上も掛かる時があります。今、縫っているものを広げて見ると、田植えをした後の水田のように美しく糸目がキチンと揃って居る処もあれば、蚯蚓が這った後のように不揃いな処もあります。アッ! ここは妻と些細な事で諍(いさ)かいをした時、そこはよなべして無理して縫った時、そしてここは誰も来客が無い静かな日曜日の午後に縫った時等々、その時々の心の状態がそのまま形になって現れているのでした。袈裟を縫う事はとても地味な行為です。しかし考えて見れば、私達の普段の生活も又同様に地味なものです。
 この日常生活を本当の意味で慈しみ、重心が置けた時、今まで全く見えなかった事が見えて来るのだと思い知らされたのでした。
 あるカンセリングの先生から教えられた『気付きは訓練によって磨かれる』を心の支えにし、そしてノ−マルな日常生活の中に喜び、悲しみ、苦しみ、痛みを感じながら生きたいと思います。

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