地位がすべてだという人へ


平成15年8月10日号

 永平寺の回廊にはケヤキの厚い板で出来た『木版(モッパン)』と呼ばれる鳴らし物が吊るされており、それには『一日暫為賓主、終身便是仏祖(一日暫く賓主たりとも、終身すなわちこれ仏祖)』という道元禅師の著された「衆寮箴規」にあるお言葉が墨で太く書かれています。 その意味は今の出会いがたとえ賓主(お客と主人、先輩と後輩、指導者と修行僧、妻と夫、親と子供、上司と部下)という関係であっても、元々はお互いに仏や祖師として拝み、拝まれる存在であるというのです。



 先日からテレビや新聞等では、横綱の朝青龍(22歳)と、同くモンゴル出身の旭鷲山(30歳)との確執が色々と報じられております。それらは5月場所の『さがり振り回し事件』に続き、7月場所での『マゲをつかんでの反則』『支度部屋の風呂場での小競り合い』等です。相撲界へ入ったのは旭鷲山の方が先輩で、朝青龍が入った時には、すでに旭鷲山はモンゴルで大ヒーローとなっていました。しかし朝青龍が入門すると先輩の旭鷲山の地位を瞬く間に追い越し、一気に横綱まで上り詰めて仕舞いました。相撲界では何処までも、地位がものを言う世界です。いくら入門したのが早くても、地位が低ければ控室での座る場所や待遇も違ってきます。
 しかしこれは日本の文化に於いてはあくまでも建て前で『星の数より飯の数』と言うことわざがあるように、昔から日本には入門の早い先輩を大切にする『長幼の序』の教えがありました。この『長幼の序』の教えに裏打ちされて、はじめて『地位がものを言う』という相撲界も成り立ち、力士の品格も備わって来るのだと思われます。
[朝青龍もすっかり日本の相撲界にも慣れ、横綱としての品格を備え、大横綱の風格さえ感じさせています]



 相撲界や職場等ではその人の能力に応じ?地位が与えられるので、しばしば先輩と後輩の立場が逆転して仕舞う事があります。自分より後輩が、先に出世し、いつの間にか自分の上司になっていた等という事を良く聞きます。ところが永平寺等の修行道場では一日でも速く入門したものが先輩であり、それは終始一貫しており、その修行道場を去るまで変わる事がありません。何故なら道元禅師は『群を抜けて益無し』といい、個人の能力や能率を、人間性に任せて競う事は、本当の修行でないと教えているからなんです。
 道元禅師は修行道場での先輩への接し方について『対大己五夏闍梨法』一巻を著わし、
その中で
      『先輩より先にお風呂へ入ってはいけない』
      『先輩の前で洟(はなみず)を垂らしてはいけない』
      『先輩の失敗を見て声高に、笑ってはいけない』

等と、62ヶ条にわたる細やかな注意事項を述べています。
 『仏教は悟る事だ』と考えている我々に対し、道元禅師はこの『対大己五夏闍梨法』の最後に『これらの 注意事項を守り、実行する事が実に大乗仏教の究極の教え』であると述べ、『仏教が生き方の宗教である』 事が示されています。



 相撲界をはじめ、今の日本には『長幼の序』の教えも衰退し、人間関係がどこかギクシャクし、その結果生き馬の目を抜くような凶悪な事件が次々に発生しています。そこで道元禅師の「一日暫く賓主たりとも、終身すなわちこれ仏祖」として、お互いが拝み、拝まれる関係を作り上げる事が、今の『病める日本』を救う手立てになるのではないかと愚案しています。


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