平成17年3月30日

 黒髪の文化史を研究している大原梨恵子さんは、江戸時代の髪型について「髪型の様態を見れば、その人の身分、職業、年齢が分かるようになり、より細分化されていた」と言っています。そのように日本では「髪型」がその人の身分を象徴するものになっていました。
 又、奈良時代に制定された「冠位十二階の制度」では、位階や身分によって使用出来る色を上位から紫、青、赤、黄、白、黒の六色とし、それぞれの色をまた濃淡で二段階に分け、合計十二色に配しています。同形色の色では濃い方が高位になり、濃い紫が最上位の色になります。この「位階や身分による色」の規定は日本にかぎらず、インドや中国を始め、世界各国にもあったようです。
 出家得度式では、先ず位階や身分によって型が決められていた髪の毛を剃り落とし、次に紫、青、赤、黄、白、黒等の身分や階級を表現する色を染め直し、壊れた色つまり汚れた色のお袈裟に改めるので「剃髪染衣(テイハツゼンネ)」と言い、また権威の虚飾を剃り落とす事から、出家得度式は「落飾(ラクショク)式」とも言われています。
 「飾り」という字を大漢和辞典で調べると「いつわり、内実の非なるを外面のみ是なるが如くする」とあり、つまりいつわりの心を覆い隠す為に髪の型に権威をもたせたり、身にまとう装束の色に権威をもたせている事です。


 道元禅師は建長元年(1249年)に当時の後嵯峨天皇より最高の権威である「紫衣」を賜った事がありました。しかし「剃髪染衣」を旨とし、出家をされた道元禅師は三度これを辞退されたと言います。しかし時の太政大臣、久我通光(ミチテル)公は禅師の親戚筋にもあたる人で、幾度も辞退する訳にもいかず、三度目には「紫衣」を賜ったのでした。
その時、道元禅師は次のような詩を詠まれています。
『永平の山浅しと雖も、勅命重きこと重々、却って猿鶴に笑わる、紫衣の一老翁』と、大凡の意味は「この永平寺の山は浅く、つまり浅学な私が、重き勅命によって紫衣を賜った。しかし権威の象徴で、虚飾そのものである「紫衣」を私が身に纏ったら、無心に生きる猿や、鶴たちに逆に笑われて仕舞う」というのです。たとえどんなに重き勅命であっても、道元禅師は生涯「紫衣」を身に纏う事がなかったと言われています。
 そして道元禅師は『髪をそり、また髪をそる、これ真出家児なり(法華転法華巻)』と述べ、そのような『飾り』を剃り落とす事が本当の出家者だと我々を教導するのです。しかしその虚飾を剃り落として行く事が、我々にとって容易な事ではないのです。


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