平成12年8月5日号
 若き道元禅師が、宋(中国)の天童山に滞在していた時の事です。暁天坐禪(早朝の坐禪)の際、道元禅師の隣で坐禪をしていた修行僧が、開静(朝を告げる鐘や木版の音)に合わせ、畳んであるお袈裟を取り出して、それを自分の頭の上に載せ、恭しく合掌し、静かに次のような経文(偈文)を唱え出したのでした。

大哉解脱服(ダイサイゲダップク)
無相福田衣(ムソウフクデンエ)
披奉如来教(ヒブニョライキョウ)
広度諸衆生(コウドショシュジョウ)

 それを見聞きした道元禅師は、今までに経験した事がない、喜びの感情が込み上げて来て、こぼれ落ちる涙を止める事も出来ず、衣の襟を濡らして仕舞いました。
 あまり感情を表に現さないと言われる道元禅師が『歓喜みにあまり、感涙ひそかにおちて衣襟(エキン)をひたす』と述べておられる所を見ると、余程お袈裟を頭上に頂戴しているその修行者の姿に感動されたものと思われます。道元禅師は何故それほどまでに、感動されたのでしょうか?


◆お袈裟を頂戴する方法
 道元禅師は、昔『阿含経』という経典の中に「お袈裟を頂戴する時の経文」がある事を発見しました。しかしその『阿含経』には「経文や方法」が詳しく書かれおらず、ただその時には「お袈裟を頂戴する時には、頂戴の経文と方法があるのだ」という事だけしか、わかりませんでした。日本にいる時には、導いてくれる先生もなく、又教えてくれる友もいなかったのですが、今この中国の天童山で『お袈裟を頂戴する時の経文と方法』を目の当たりにし、道元禅師は心から感動されたのでした。


◆『頂きます』とは
 我々はご飯を食べる事を『ご飯を頂きます』と言い、又お茶を飲む事を『お茶を頂戴します』等と言います。そのように我々は、普段ご飯や、お茶に対して『頂きます』『頂戴します』等と敬語を使っています。或いは作って呉れた人に対し『お禮の気持ち』を込めて『頂きます』と言うのかもしれませんが、どちらにしても『頂きます』と言うのです。
 我々はご飯を食べる事によって自分のイノチを、保ち養う事が出来、お茶を飲む事によって喉の渇きを癒す事が出来るのです。そこで我々はご飯や、お茶に対して『頂きます』と、敬語を使っているのでした。ですから本来『頂きます』とは、自分の頭の上に安じ、心からそれを受け取る事だったのでした。


◆道元禅師の発願
 道元禅師は『頂きます』という言葉だけではなく、隣に坐った修行僧が実際にお袈裟を頭の上に頂戴し、合掌して頂く様子に驚き、心から感動されたのでした。それ以来、お袈裟がとても恭しく尊いものに感じられ、益々お袈裟に対し、帰依をされて行ったのでした。
 その時、道元禅師は
「いかにしてか、われ不肖なりといふとも、仏法の嫡嗣となり、正法を正伝して、郷土の衆生をあわれむに、仏祖正伝の衣法を見聞せしめん」と、『至らぬ所がある私であるが、どうかして、仏法の正しい跡継ぎとなり、故郷である日本の人達へ、仏様や、お祖師様から正しく伝えられて来たお袈裟と仏法を伝えたい』と心ひそかに誓願を発こされたのでした。
 そして道元禅師が日本に戻り、20数年近くが経過した時「かの時の発願いまむなしからず、袈裟を受持せる在家出家の菩薩おほし、歓喜するところなり」道元禅師のあの時の発願がしっかりと実を結び、お袈裟を自ら縫って、身に着けている多くの在家の菩薩や出家の菩薩がいて、道元禅師は心から歓喜ばれたのでした。

雨やどり
◎菩薩思想について
 大乗仏教では、菩提心を発こし、誓願による六波羅蜜等の修行を積みさえすれば誰でも皆、仏陀になることが出来ると説きます。ですから一般的に菩薩とは、上求菩提という仏に成る為の五十二の段階(十信・十住、十行、十回向・十地・等覚・妙覚、これに仏を加えると53になる。東海道五十三次はこの菩薩の修行の段階から来ている。)を修行する者と理解されているようです。
 ところが我が道元禅師は『大悲菩薩といふは、諸仏の父母とも参学す、諸仏よりも未得道なりと学することなかれ、過去正法明如来なり(正法眼蔵観音の巻)』『願生此娑婆国土し来れり』と教えておられます。span class="aka">すでに成仏した者が、衆生済度せん為に、この世に菩薩として生まれて来たのであり、そして我々も衆生済度の誓願を持ち、大乗菩薩戒を受けたならば、下化衆生の活躍をする応化身仏としての観音や地蔵と同等の菩薩であると教えているのです。

このページの最初へお袈裟の話(信仰の世界)メニューへぼさつ道目次