長昌寺を知る

山号

・赤城山

長昌寺の山号は赤城山(セキジョウザン)といいます。寺の裏からは赤城山(アカギヤマ)がよく見えますが、この赤城山とは昔から、切っても切れない身近な間柄の関係でした。それでこの長昌寺の山号にも『赤城山』と名付けたものだと思われます。

冬になるとこの地はフェーン現象でカラカラに乾いた『赤城おろし』と呼ばれる季節風が吹き荒れます。ある冬、友人がこの長昌寺に泊まった時の事、夜中にゴォーゴォーと吹く空っ風の音と、本堂の四隅に吊るされている風鐸(フウタク)が、風でガァワンガァワンと鳴る音が気になって、中々寝つけなかったと言います。

宗派

・曹洞宗(開祖:道元禅師、瑩山禅師)

仏教の宗派の名前には、臨済宗、黄檗宗、天台宗、日蓮宗等、開祖さまである方のお名前をとって宗派の名にしている所がたくさんあります。臨済宗は中国の臨済義玄禅師、黄檗宗はいんげん豆を日本に伝えられた黄檗隠元禅師、天台宗は同じく中国の天台智顗大師、鎌倉時代に興った日蓮宗は日蓮聖人という具合です。

長昌寺が属す曹洞宗も宗門の歴史上重要な役割を担ったお二人の人物のお名前から来ています。一方は、中国の唐時代に活躍された曹渓慧能禅師。もう一方は、洞山良价禅師。このお二方の「曹」の字と「洞」の字をとって 『曹洞宗』と呼ばれるようになりました。

歴史

・文亀3年(西暦1503年)開創

長昌寺の開創は今から500年以上前の文亀3年(1503年)と伝えられています。それは足利将軍家の世継ぎ問題で、11年も続いた『大仁の乱』がやっと終わり、足利幕府の権威が徐々に失われつつある時代の頃でした。そのような時に、臨済宗の僧侶、玄甫蔵主によって開創されたのが長昌寺です。

玄甫蔵主は12年間の住職の任を務めた後、永正12年(1515年)にお亡くなりになりました。その後現在の浦和市大崎にある曹洞宗国昌寺の2世大雲文龍大和尚が、大永6年(1526年)にこちらに晋住し、その時に宗派も曹洞宗に改宗されました。

その後、長昌寺は幾たびの火災に遭遇し、安政元年の25世意嶽道林大和尚以来、仮の本堂、庫裡のままでしたが、先住の30世大乗孝文大和尚が、平成7年に本堂、庫裡等の伽藍を復興し、今日に至っております。 

ご開山

・勅特賜 仏日金蓮禅師 大雲文龍大和尚

境内の中庭には「開山袈裟掛の松」と呼ばれている松があります。足利市の天然記念物にも指定されているものです。

先ほども話にあがりましたが、長昌寺の曹洞宗としての御開山様は大雲文龍大和尚です。この松は当時、そのご開山がご自身のお袈裟をお掛けになるために使っていたものだと伝えられております。

その大雲文龍大和尚は、元々は現在の浦和市大崎にある曹洞宗国昌寺の2世に当たる方で、その後この地に参られました。時に、朝廷に参内して禅の宗要を説くほどの人物で、朝廷からは類稀なる高僧の証明として「紫衣」と、仏日金蓮禅師という勅賜号を与えられました。

ご本尊

・釈迦牟尼仏、道元禅師、瑩山禅師

今から約2500年前、釈迦族の王子としてお生まれになったのがお釈迦さまです。本当の名前は「ゴータマ・シッダールタ」といいます。

不自由のない暮らしをされていたものの、深く人生の問題に苦悩され、29歳で出家をされました。厳しい修行を経て、ブッダガヤーの地、菩提樹の下に坐し瞑想に入られ、お悟りを開かれ仏陀となりました。その後、80歳でお亡くなりになられるまでの間、教化・伝道の旅をされました。

宗門では、お釈迦さまの「お誕生日」「お悟りをお開きになられた日」「お亡くなりになられた日」を「三仏忌」と定め、毎年大切にご供養法要をお勤めしております。

4月8日降誕会(花まつり)
12月8日成道会
2月15日

また曹洞宗では、そのお釈迦さまとともに、鎌倉時代に中国に渡り曹洞宗を日本に伝えられた道元禅師、大本山である總持寺をお開きになり曹洞宗を全国に広められた瑩山禅師、このお二方を両祖と仰ぎ、「一仏両祖」としておまつりしております。

御詠歌

・両 野 三 十 三 観 音 札 所 の 第 三 十 三 番 結 願 所

三 十 あ ま り  三 つ の す が た を  高 松 の み と り 立 て そ う  花 ぞ 赤 城

・足 利 三 十 三 観 音 霊 場 の 第 二 十 四 番 札 所

尋 ね 入 る  筑 波 の 里 の  大 悲 尊 赤 城 の 峰 に  法 の あ め ふ る